けまろう

私が、生きる肌のけまろうのネタバレレビュー・内容・結末

私が、生きる肌(2011年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

『私が、生きる肌』鑑賞。ペドロ・アルモドバル監督の作品は、大学の授業で観た『ボルベール』以来。あの時はペネロペ・クルスのエロさしかわからなかったが、本作は倒錯した人間のエゴが非常にミステリアスに描写されていた。
強姦されて命を絶ってしまった娘のノルマの父ロベルが、強姦(結局未遂だが)したビセンテに性転換手術を施す物語。そして、性転換手術をされたビセンテは、ベラとしてロベルと監視役のマリリア(ロベルの実母)とともに暮らし、油断を突いてロベルとマリリアを殺害して脱走する。しかし、「ベラ=ビセンテ」の事実が明かされるのは物語の後半で、それまでは謎の女性ベラとしてヴェールを明かされないのだ。妻に似ている以外は、ただの美しい女性として存在し、正直二重も三重も騙された。(まさか男だったとは!)
聡明なロベルを油断させたのは、ベラのその美貌だった。ベラはロベルを身体で誘惑することで油断を誘い、殺害、逃亡を遂行したのだ。娘に強姦した男に、妻に似せた性転換手術を施した挙句、交わろうとするロベルの倒錯したフェティシズムもさることながら、自身に性転換手術を施し、アイデンティティクライシスを齎した男を誘惑せざるを得ないベラ(ビセンテ)の複雑さも相当なものだろう。
そして、脱出したベラは母親の元へ向かい、訴える。自分がビセンテであると。命どころか存在を奪おうとしたロベルの目論見を正に崩壊させる台詞だ。
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