泣き虫しょったん

パラサイト 半地下の家族の泣き虫しょったんのネタバレレビュー・内容・結末

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

格差社会をテーマにした映画。
興味深い点がいくつもあった。
一家は自分たちのQOLの向上のために、非人道的な行動を平気で起こす。しかしこの世界ではそれらがいささか許されている、つまり、(元家政婦を除いて)それらを咎める人がいない(=正確に言えば真実を知っている人がほとんどいないだけだが、それも全て監督の意図だと思われる)。そこには人間の本質的な部分が如実に現れているように感じた。自分たちの生活のためならば、嘘をつくことも、冤罪によって赤の他人の人生を壊すことも、そして"目障りな"人間を殺すことも、彼らにとっては"正義"なのだ。それが罪のない人間に対する残虐な行為だと知っていても。
世の中にはしてはいけないことがあり、それを規制するために法律がある。でももし法律がなかったら?人間はそんなに綺麗でいられるだろうか、と。
人間個人レベルで見る「正義」と「悪」の問題は、規則のもとに語られるものではないし、そこに答えはないと思う。正義と悪は表裏一体であり、おそらくすべての人間が持ち合わせているものなのだろうと、この映画を見て改めて感じた。
結局のところ、彼ら家族が起こした一連の出来事は、彼らにとっては紛れもない"正義"だったのだと思う。もちろん、元家政婦と地下で暮らしていたその夫にも正義があった。誰が悪いのかと問われれば、そこに答えはない。

「正義と悪」「人間の本質的な部分」というと、一番印象的なシーンは父親が社長を突然刺すところ。彼は社会的弱者で、自分と違う世界に住む人間に「匂いが度を越している」と言われた。ただそれだけだ。なぜ殺してしまったのか?
社会的弱者から見た彼ら上流階級の人間は、どんな存在なのだろうか。決して恨みがあるわけでもなかったはずだ。
でもそこには、自分にはないものを持っている富裕層へのねたみ、離れたところで嘲笑されることへのやるせなさ、そして無力な自分自身に対する不甲斐なさ...弱者にしか分からない複雑な想いがたしかにあったはずだ。
この気持ちは弱者にしか分からない。自分も時々、自分と違う世界で生きている人間が憎くなることがある。決して彼らに非はない。彼らはそこで普通に生きているだけなのだから。それでも、殺したいほど憎くなるのは、きっと本作品の父親と似た感情なのだろうと思う。だから自分には、彼が社長を殺してしまった理由、その想いがなんとなく理解できる気がする。いや、もし自分だったら同じことをしてしまっていたかもしれない。というのも、前々から彼の中で沸々と湧き立つ静かな憎しみが僕には見えたし、あぁきっと殺しちゃうんだろうなと予想できてしまったからだ。


これは経済的な格差問題をテーマにした作品であるが、問題の根本は他の諸問題と同じところにあると思う。どうしても優劣がついてしまう人間の社会で、社会的弱者だけが抱える想いと、決してそれを解決できない社会の現状。それはつまり、「共生」の難しさがすべてを物語っている。ポン監督はこの「共生」がテーマであるが、この作品では互いが互いに「寄生」していると話していた。ここから分かることは二つ、一つはいくら「寄生」し合ってもそれが「共生」につながることは難しいということ。それは結局、寄生し合う両者の間には大きな「ちがい」があり、それを理解できない両者は自分の"正義"のために寄生しているからだ。「共に生きる」ことなど最初から求めていないのだ。
そしてもう一つ、両者が寄生しあっているというのはつまり、この映画で伝えたいことは「経済格差における弱者が可哀想だ、この問題どうにかしないとね」ではないのだということ。金、仕事、性別、人種...中にはあってはならないものもあるが、様々なフィルターが人間と人間の間に上下関係をつくっている。でもそのフィルターが一切無くなったら?我々はどうやって他者との間に序列をつけるのだろうか。つまり、元々強者と弱者などという上下関係なんて人間間には存在しておらず、誰もが強者にも弱者にもなりうるということ。この作品における両家族の関係は、「寄る/寄られる」の一方通行的な関係ではなく、共に生きざるを得ない人間の本質的な部分を色濃く表しているようにさえ思えた。

そして最後に、もう一つ印象的だったこと。
結局最後まで、社長一家は半地下家族の家の場所も、彼らが何者であるのかも知らないまま終わる。これが何を意味するのか。思うに、人間には自分の知らない世界がある。自分の中で"普通"だと思っていることも、外では普通ではない。それでも人は、その"普通でない"存在/世界をその目で見るまでは決して、その世界の存在を知らない。カッパは本当にいるかもしれない。それでも我々は一切見たことがないから、「伝説」「妖怪」といって片付けてしまう。それでも真実は誰にもわからない。それが"未知の世界"なのではないか。
社長が運転手の匂いが"半地下の匂い"だと表現できなかったところに、このことについての大きなヒントがある。彼は匂いの原因を当てられなかったし、その発言に悪意などなかった。なぜなら彼らは半地下という世界を知らないのだから。

隣に困っている人がいようと、苦しんでいる人が
いようと、その世界を知らなければそれは透明であるも同然。その世界の住人にしか見えない世界、苦しみ。見えないのだから、悪気もない。
それでも、各々が生きる世界で、相手の実態(体)が分からないまま、我々は共生しなければならない。それぞれの正義を貫くために。



P.S.
同じ「ちがい」「共生」というテーマで考えると、昨年度のアカデミー賞受賞作であるグリーン・ブックは対照的で、ちがいを乗り越えて共に生きることの美しさ(もちろん多少の困難も途中で描かれてはいるが)を前面に出しているような気がする。どちらも考えさせられることは似ているが、今回の映画の方がよりリアルにその難しさを描いていたように思える。