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Al primo soffio di vento(原題)
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『Al primo soffio di vento(原題)』に投稿された感想・評価

[あの夏の午後はどこに] 80点

ある夏の午後、特に何もすることがなくて、特に何も起こらないまま時間が過ぎていく、という平和さと贅沢な退屈さの映画。自然音(雨音、風音、虫の音)と長女が居間で奏でるピアノの音に包まれた静寂の中で、自然の中にいる人間、および人間の中にある自然を丹念に描き出している。しかし、そんな美しさとは裏腹に、自然光の陰影は、家族のそれぞれが自分の繭の中に閉じこもり、同じ屋根の下にいるとは思えないほど距離があることを暴き出す。美しさと不気味さの共存する超越的な時間。ピアヴォリのベスト。
yuien
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Al primo soffio di vento
風の一番目の呼吸で

タイトルからしてもう愛さずにはいられない。風の息吹が本当に聴こえてきそうなくらいに、夏日が瑞々しく澄み渡っていた。
雨のように降り注ぐ虫の音色や鳥の軽やかな歌声、清潔なせせらぎ。湖面は光に反射して宝石みたいにきらきら凪いでいる。ピアーヴォリ監督の映した映像世界は柔らかい音や息遣い、ぬくもりに充満されていて、とても心地が好い。

気だるい昼下がりの、あの半睡半醒の世界にとろとろと誘なわれ、瞼はまどろむ。
意識は夢の水にゆっくり足を浸っていると、隣からそっと不穏な気配が忍び寄って来る。遠雷に伴った夕立。不協和音。そして、名状し難いメランコリー。たわいも無く平坦な一日の中にあらゆる感情の揺らぎが凝縮されていた。

監督は間違いなく詩人であるし、同時に腕のいい画家でもあると思う。一枚一枚の構図や静物の配置はもう立派な油絵そのもの。それでいて絵画のように封じ込められた感覚はなく、映像から鼓動を感じる。
その眼から見た世界は優しさと穏やかさに溢れているけれど、その足元には常に緩やかな死の予感が絡みついている。光を通して微細な塵は琥珀色にきらめき、ひと房の睫毛の先にも、一筋の皺のひだにも詩情が積もる。

訪れたことのない遥か遠い地だけれど、なんだか自分自身の子供時代の記憶をぼんやり眺めているような、越境的な懐かしさに包まれるし、なんと言っても猫のあのもふもふした毛並みにこぼれた陽光にたまらなく触れてみたくなってしまう。ああ、額縁におさめて壁に飾り、延々と流していたいなあ。
時間と土地の記憶を風に乗せて。

イタリアの風土が孕む詩的な情緒と、人間の暮らしが自然と寄り添いながら営まれる様を、本作は限りなく静かに、寄り添うようなまなざしで描く。
ここには観光写真で切り取られるイタリアではなく、土地に根を張るようにして生きる人々と、その暮らしを包み込む季節の時間が、まるで風に乗って届くかのように淡く、しかし深く息づいている。
ゆっくりと流れるうつろな時間のなかで垣間見えた本作の輪郭を、ここに綴りたい。

もちろん本作に明示的な物語性やドラマは存在しない。あるいは、本作における物語とは、自然の循環そのものである。
本作の舞台となるのは、イタリアはロンバルディア地方の田園地帯。
そこには観光化されたイタリアの華やかさとは異なる「生活の詩」が広がっていた。
農村の一夏、暑さに満ちた午後、無言の労働、子どもの笑い声、食卓に並ぶ果実、熟れたぶどうの重み、干し草の香り、午後の強い日差しとそのなかでほとんど動かない影、陽だまり、風の通り抜ける音、水のきらめき、遠くの鐘の余韻、そのすべてが、イタリアの大地と切り離せない文脈で語られる。それらは生活の断片であると同時に、この国の土地がもつ幾千年の記憶の肌理なのだ。
さらにはピアヴォリはそれらについて決して説明しない。
沈黙を貫き、ただ、キャメラを生活や自然の隙間に埋め込むようにして、時間の流れを受け入れる。そうして映し出されるのは、人間が自然のなかに溶け込みながら暮らすという、かつては当たり前であったが、今やどこか遠い記憶の底に沈んでしまったような生活のかたちである。

私は以前から、イタリアという国とその風土に漠然とした情緒のイメージを抱いていたのだが、そんななか本作で再認識したのは、イタリアの田舎には陽光の射し方ひとつにも文化があるということだった。
石造りの壁に落ちる木の影や、人々や家畜の生活の隙間に射し込む光、開け放たれた窓から流れ込む午後の風、物干し竿に揺れる洗濯物など、それらは、言葉にはならないが、確かに私が抱いていた「イタリア的」なイメージの時間と空間の手触りを持っていた。
ピアヴォリは、その手触りを慈しむようにして捉える。どこまでも優しく、どこまでも静かに、自然のリズムとして。
映し出される自然風景は、ただ「美しい」のではなく、人々の生活を支える欠かせない存在としての自然、ないしは人間の営みによって育まれてきた風景として、深い記憶を伴って画面に現れるのだ。

そして本作で最も心に残ったのが、「静けさ」の扱いである。
ここにある沈黙は、単なる無音ではなく、それは風の通り過ぎたあとに残る余白の美であり、子どもたちの笑い声が遠ざかったあとの余韻であり、午後の熱に満ちた空気の重みでもある。
ピアヴォリは映画という媒体を通して、イタリア的な情緒の本質、すなわち、人生の豊かさが喧騒の中ではなく、静謐な時間と空間のなかに宿るという感覚を、この沈黙の織物の中に織り込んでいる。
ゆえに本作は、「音」の映画としての側面も持つ。だがそれは、決して音楽が流れるという意味ではない。
とりわけここで重要なのは、言語的コミュニケーションが最小限に抑制された「非言語的音響」の存在だ。
それは空間の奥行きと時間の伸縮を聴覚的に体現するものであり、この非言語的な音響の網は、観客の知覚を拡張し、映像に映るものだけでなく、映像の外=フレーム外に広がる環境との共振をも経験させる。ここにおいて、映像や音は記録の装置ではなく、感覚の生成空間として機能している。
そよ風の音、子供の笑い声、虫の羽音、木々のざわめき、穏やかなピアノの音色、鳥の鳴き声、そして沈黙という、これらの非言語的音響は、従来の映画で扱われる単なる背景音ではなく、まさに本作における物語そのものであり、「無言の主張」なのである。
加えて、サウンドデザインも極めて精緻であり、無音すらもひとつの「音」として意図的に扱われる。
ピアヴォリは、人間の声さえも抑制し、自然の声に耳を傾けることを観客に促しているのだろう。

視覚面においてもピアヴォリの作家性は常に顕著だ。
ピアヴォリはよく極端なクローズアップと長回しを用いて、対象に深く潜り込もうとするが、本作のキャメラは特に、「人」と「自然」と「光」と「影」にフォーカスしていることが印象的である。
壁に映る窓の模様や花瓶の影など、どのショットもひとつひとつが静謐な詩であり、それはもはや映画ではなく、映像による想像、あるいは瞑想と呼ぶべきものだろう。
このような映像表現は、いわゆる「ストーリードリブン」的な映画と対極にある。
しかし、そこには明確な意図が存在し、むしろそれはピアヴォリによる静かなるアンチテーゼであり、生命と時間、そして存在そのものに対する根源的な問いの投げかけなのではないかと私は思う。

さらに哲学的視点から本作を解体すると、本作が提示する「時間」の構造的脱構築が際立つ。
ピアヴォリの映像において特徴的なのが、時間はもはや因果的に進行するものではなく、円環的・層的に堆積する感覚的地層として出現するという点だ。
季節の移ろい、風の運動、光の変容といった自然の微細な変化は、子供たちの遊戯や老人の老いた身体の沈黙と並置されることによって、時間の単線的流れを逸脱し、リズムと間としての「生」の在り方を再構成している。

タイトル『At the First Breath of Wind(風の最初の息吹)』の詩性にも注目し、想像を広げてみよう。
まず、「風の最初の息吹」とは、季節の変わり目や、一日の始まり、もしくは沈黙の中から何かが動き出す瞬間を象徴する言葉として読める。自然の営みが静かに動き始めるという、その原初的な瞬間を捉えたイメージの表れかもしれない。
風の息吹を「時間の始まり」として捉えると、物語や出来事が始まる前の状態、すなわち純粋な現在の詩的なメタファーとなり、これはピアヴォリのフィルモグラフィに共通して漂う「脱物語的時間」の流れである。
しかしこのタイトルは、必ずしも観念的なニュアンスのみを内包しているわけではなく、そこには画面内での風の質感がスクリーンという枠を超えて、実際に観客の肌に触れるようなメタ的な知覚体験を体現している。
ソファで昼寝をしているときにそっと背中をさすってくれる風、雨の降るじめっとした空気のなかを通り抜ける風、労働後に汗を拭ってくれるような優しい風、映像に現れるこれらの風が、画面の向こう側と現実世界を繋ぎ、あたかも観客はその現象(風の息吹)を自分の身体で感じ取り、あるいはその瞬間において過去の体験を現在のものとして錯覚するだろう。
だからこそ、この『At the First Breath of Wind(風の最初の息吹)』は、非常に詩的な感動を呼び起こすメランコリックなタイトルであるのと同時に、本作そのものが映像世界と現実世界を接続させる「風」であるということを巧みに表現した、作品の外に存在するひとつのメッセージなのである。

本作では、ひとつの村、ひとつの季節、ひとつの風景を通して、イタリアという国が持つ内的なリズムと、人間や動物がそのなかでどう生き、どう死に、どう記憶されていくのかを問いかけている。
そこには声高な主張も、物語的なカタルシスもない。
ただ、風が最初に吹き抜ける瞬間のような、かすかな気配だけが確かに残る。
そしてその気配こそが、ピアヴォリの映画が観客に手渡そうとしている最も大切なものなのだろう。
自然と人間が別々ではなく、ひとつの呼吸のなかにあること。
イタリアの大地が、風が、今も人々の生活を静かに包み込んでいること。
そうした事実が、私の心にそっと優しく触れる。