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マリッジ・ストーリーのKuutaのレビュー・感想・評価

マリッジ・ストーリー(2019年製作の映画)
4.2
視点が変わると世界も一変するのが映画の醍醐味だ。夫婦のすれ違いを描く映画がいつの時代も魅力的なのは、その根幹に「多面的な世界の可能性」というコミュニケーションのスリリングさが満ちているからだと思う。

そして、こうした「結婚映画」の伝統に新たな傑作が加わった。マリッジ・ストーリーである。

主演のアダム・ドライバーとスカーレット・ヨハンソンの熱演はもちろん「書くこと」や「演じること」など、幾重にも重ねられた演出、丁寧な語り口の脚本に感服した。

舞台監督と役者という虚構(役割)を背負った夫婦。会話の作り方が良くできていて、本音と建前が常にダブって聞こえてくる。また、絵本の音読やテレビドラマのセリフが、心情吐露や編集のつなぎ目として使われており、彼らの虚実入り交じった生活を表現している。

書くことから始まる映画。自宅での夫婦の会話には仕事の話=「偽った演技」の話しかない。チャーリーはニコールにダメだしを書いて「感情が嘘っぽい」と指摘する。

テレビの作り物の植物の世界で、ニコールは母親を演じている。泥沼にハマるきっかけとなる書類は、キャシーとチャーリーの「演技合戦」の最中に渡される。終盤、調査員の目を欺くために役者のニコールは台詞を覚え、監督のチャーリーは「まるでダメな植物たち」で自室を演出する。

ノラ(ローラ・ダーン)が語る聖母マリアの例えも面白かった。伝統的な女性性から来る怒り。レイ・リオッタ演じる弁護士ジェイは古くさい男性性の象徴か?昔の武勇伝を語り続けるおっさん役者はMetooの風刺っぽいが、ノラはノラで女性的な怒りをエクスキューズに、自分の利益を引っ張り出しているようにも見えるのがうまいバランス。

映画的な語り口も美しい。
ノラとニコールの最初の面談。ノラは引いた画角の中で淡々と話を聞いている。ニコールとは物理的にスペースがある。だがニコールが涙を見せた瞬間隣に座り、カメラも一気に近づく。ノラは上着を脱ぐ。スムーズな切り返しと共に会話も円滑になっていく。ニコールは夫婦のなれそめを語りだす。

もちろんこの後のスカヨハの演技も素晴らしいのだが、実に映画的な煽りが効いている。演出や撮影が名演を支える手の行き届いた作品だ(会話の撮り方は大好きなベルイマンの「ペルソナ」を参考にしたそうで、なんでこの映画がここまで胸に刺さったのか納得した)。

中身に入りたい。最初はニコールとチャーリーそれぞれのパート。

結婚はニコールにとって自己実現の過程だった。彼女は結婚することで自分を見いだすが、家庭でのぞんざいな立場に気付き、自分が消える感覚を再び味わう。「19歳、20歳と変わらない」。この夫婦特有の悲痛な主張だ。

続いてチャーリーの世界に入る。私が男だからか、基本はチャーリー目線で見てしまった。男は話し合えば最後までなんとかなると思っているもんだよなぁ。彼からはあまり緊迫感が感じられない。近場のホテルを提案される場面、チャーリーは家に泊まるつもりだったんじゃないのか?とても悲しそうに見えた。

ここから弁護士の登場で話がこじれていくのは何ともアメリカ的。「こちらの常識と相手の非常識がぶつかったら半端な非常識になる。だから戦う」。そんなロジックありかよと思うが、勝ち負けだけが問題となる代理戦争へ突入する。

父としての自分をアピールするために、透明人間=誰でもない存在が子供と手をつないでハロウィンを練り歩く(キャンディの入れ物をひっくり返すヘンリーが、この試みが成功しないと教えてくれる)。今更「遅すぎる」時間にさまよう様は滑稽だ。チャーリーの右側に半端に空いた空間が母親の不在を想起させる。

弁護士を交えた和解は決裂する。だが、この地獄絵図の中でも、料理を選べないチャーリーに代わって注文するニコールが最高。理屈や損得勘定を越えた夫婦のつながりというか、共に過ごしてきた時間の重みというか(ゴーン・ガールのシャンプーを手渡してしまう場面を思い出した)。

門は閉ざされ、夫婦は完全に断絶する。主張の時間はここまで。チャーリーは眠ったまま引き渡されるが、この動作はラストシーンに再登場する。

続いて裁判パート。
裁判は客観的に生活を見直すこと。夫婦は互いを知り過ぎているから、一度裁判になるとどこまでも戦えてしまう。裁判は、もはや対話ではない。きちんと向き合わず、一方向に向かって主張を投げ続けるカット割り。「そんな見方もできる」がひたすら繰り返される。

暴露合戦に疲れ切った夫婦はもう一度話し合おうとする。画面奥のソファと右手前のソファに座る構図は、ニコールがなれそめを語ったノラとの面談を引き継いでいる。最初はノラと同じく距離の開いたワンショット。だがその後は…。感情の高まりとすれ違いが、演技と画面構成で見事に表現されている。「私の方が愛していた」。ベルイマン顔負けの罵り合いだった。

だがシリアスさが最高潮に達した直後、こっちはニコールの独白をかなり緊張して見ていたのに、ここにすら笑いを入れてくるのがこの映画の良いところ。ニコールの世界観というか、力強さの反映でもあるなあと。

一方、チャーリーは特別な料理で調査員にアピールしようとする。勢い余ってナイフで調査員を脅すようにも見える。カットが変わると調査員が立っているホラー演出には、父として見られている、というプレッシャーがにじむ。

ヘンリーと遊ぶ中で出た「It's time」は最後通告。「もう休みたい」と言われ、映画の進行と共に階段の下へ下へと降りてきた彼は、台所の床の上でついに力尽きる。

この場面も色々考えてしまった。「レゴで遊ぶのが好き」というヘンリーの台詞から、車の中では気を使ってレゴの話題をしてくれたのかもしれないとか。そもそも料理でアピールを試みるのは、何でも無い食べ物を褒めてくれるニコールがいたからこその思考だろう。

調停書にサインをした瞬間、チャーリーだけが自分に見つめられる。自分で付けた傷は思ったよりも深い。この裁判で問われていたのは自分自身だったことを、彼はようやく思い知る。私には最後まで、チャーリーがニコールの主張に反駁できたとは思えなかった。

エピローグ。同じミュージカルから何を読み取るかの違いに夫婦の差が現れている。アダム・ドライバーの歌、良い意味でびっくりした。

ロサンゼルス勤務になって(あと一年早ければ状況は違ったのかもしれない)、ちょっとばかりの期待感もあったのか、チャーリーは再び家を訪れる。だが、ニコールは次のステージへ進んでいる。扉を閉じずに会話してくれるものの、自分の写真はない。手紙も感動的ではあるが、同時にあれがヘンリーの手の届く場所にある時点で、ニコールの気持ちってどうなんだろうなと。

2回目のハロウィン、成長を続けるヘンリーは目を覚ました状態で引き渡される。靴紐の場面、能天気にも私は「ニコールはまだ気を使ってくれている」と思ったが、他の方のレビューを見るとあれは自分の足で歩くための決別のサインとあって、なるほどそういう愛もあるのかと。

愛する上では、セックスも会話も同じ意味を持つ。裁判の場とは不釣り合いな、日常のやりとりも、ちょっとした家事も。(ジャン=マルク・ヴァレ監督の「雨の日は会えない、晴れた日は君を思う」も、そんな夫婦の記憶を辿るお話だった)

この離婚も、愛した人同士の共同作業。どんな状況でも人生は続くが、1人では生きられない。支えているようでいて、実はすごく支えられていたと、チャーリーが思い知る話。そう受け取った。86点。
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