ナガエ

虚空門 GATEのナガエのレビュー・感想・評価

虚空門 GATE(2019年製作の映画)
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UFOの映画かと思っていたら、実は違った。そしてだからこそ、非常に面白かった。


僕は、UFOも占いも信じないのだが、「UFOを信じる人」や「占いを信じる人」は興味深いと感じているし、「UFOというシステム」「占いというシステム」も非常によく出来ているなぁ、と感じている。

僕の「UFO」や「宇宙人」に対する考え方は後でまとめるが、少なくとも「この映画に登場する人たちのようには信じていない」ということは先に書いておこう。

まず少し、「占いというシステム」の話をしたいと思う。これは最近、特に実感するようになったことだ。

突然芸能人を占う、というテレビ番組がある。僕はその番組をほぼ見たことがないが、そこで語られた内容がネットニュースになることがしばしばあって、その記事を何回か見てみた。すると、「占いというシステム」が持つ非常に良いメリットに気づいた。

一番印象的だったのは、あるアイドルグループにいた人物が、「自分が恋愛でぐちゃぐちゃしたせいで、グループ全体で『恋愛禁止』になった」みたいな話をしていたことだ。これがテレビ番組で流れるということは、本人だけではなく、事務所的にもOKということだ。となればむしろ、本人も事務所も「積極的に話したかった」と考える方が自然だろう。

しかしそうだとしても、元アイドル本人の口からそんな話をするのは難しい。そこで「占いというシステム」が活躍する。「占い師に指摘されたから仕方なく話すんです」というスタンスを取れば、元アイドルも占い師も両方ともメリットがある、というわけだ。

つまりこの番組では、「占いというシステム」が「本人の口からは言いにくいが様々な事情から言ってしまいたい話を、占い師に見透かされたからしょうがなく話しているんですという体でオープンにできる」という機能を持っているということになる。

これは良く出来てるなぁ、と思う。

これは別に、この番組だけの話ではない。一般的に「占い」というのは、何か悩みを抱えている人が行くものだろうし、そういう人も、「占い師に見透かされているんだ」と思えば、普段は口に出せないような悩みをすっと吐き出せるかもしれない。

そういうシステムとしての「占い」の側面は非常に興味深いと考えている。

このように、その対象そのものはまったく信じていないが、それを取り巻く「システム全体」として見た時に、誰かにとってはプラスとなる機能を発揮している、という意味で、その対象の価値を評価している。

「UFO」を始め、UMAや陰謀論などの「未知の存在」にも、似たようなことを感じる。

一般的に「学問」というのは「正しい形で『誤り』が指摘されることで進歩していく」だろう。科学にしても歴史にしても、経済・政治・哲学などなんでもいいが、基本的には「既存の考え」が否定され、その上に新たな知見が積み上がることで進展する。科学においては、「科学理論には必ず『誤りの可能性』が含まれる」という事実を「反証可能性」と呼び、この「反証可能性」を持たないものは「科学ではない」と判定される。

しかし、「未知の存在」については、「通常、否定されることはほぼない」という点が、一般的な「学問」と異なる点だ。そしてこの「否定されない」という性質が、「それを信じること」への安心感を強めている、という側面は間違いなく存在すると思っている。

例えば、「何万光年先のなんちゃら星から、地球人の偵察のために宇宙人がやってきている」みたいな主張は、まず否定されることがない。仮に、「地球上で観測されるすべてのUFO(未確認飛行物体)」に対して、自然現象・衛星・目の錯覚など完璧な説明がつけられ、「外宇宙から宇宙船がやってきている」という事実が完全に否定されたとしよう。しかしそうだとしても彼らの主張が揺らぐことはない。「何万光年先のなんちゃら星に宇宙人がいる」という点は否定できないし、「宇宙船でやってきているのではなく、一部の地球人とテレパシーでやり取りしているんだ」と主張を変えればいいからだ。

このように、「未知の存在」を信じる人たちの主張は「『否定された』という状態に達しない」という点で信じる価値がある、というメリットがあると僕は思っている。

この映画の冒頭で、このことを示す非常に印象的な場面があった。

映画の冒頭では、「YouTubeにアップされていた月面異星人遺体動画」の真偽について、様々な”専門家”に話を聞くという映像が続く。そして、その”専門家”の何人かが、趣旨としては似たようなことを言っていた。それが、

「この動画はフェイクだ。しかし、フェイクだからこそ、宇宙人は存在するという証拠になる」

というものだった。

どういうことか説明しよう。仮に、「実際に月面異星人の遺体」が存在するとしよう。しかしそうだとしても、その映像をそのままアップしても誰も信じない。地球には、そういう考えを受け入れる土壌がないからだ。だからこの映像の撮影者は、実際の映像を元に「フェイク動画」を作り、一部の人間に「この動画はフェイクだが、事実としては起こっているのだ」と伝えようとしているのだ、という主張である。

凄いな、と思う。冒頭で語られていたこのような理屈には、なかなか震えた。これも、「動画がフェイクである」ということを指摘されたところで、主張が揺るがない実例と言っていいだろう。

そして、この映画で描かれる「ある事柄」は、「未知の存在」研究が持つこのような性質に大きく関係していると思う。つまり、「批判・否定する/されるという土壌が、基本的に存在しない」ということが、庄司哲郎のような人間を生み出すのだろうと思う。

そう、この映画は「庄司哲郎」という人物を多面的に捉える映画、と言っていいだろうと思う。一般的な社会コミュニティではまず存在し得ないキャラクターだと思うが、否定という土壌が存在しないUFO愛好家というコミュニティだからこそ存在し得る。

つまり、「庄司哲郎」という人物を描き出すことによって、「UFO愛好家というコミュニティ」を描き出す映画であり、さらにそれによって「彼らにとって『UFOを』とはどのような機能を持つ存在なのか」を感じ取らせる作品でもある、ということになる。

ここで、僕の「UFO」や「地球外生命体」に関する考えを書いておこう。

僕は基本的に「地球外生命体」の存在は受け入れる。映画の中で、拘置所近くで出会う警官(あるいは警備員)と話す場面があるのだが、その警官が話していた通り、「宇宙は広くて天体もたくさんあるんだから、知的かどうかはともかく生命体がいることは間違いない」と僕も思うし、僕は、人間と同程度かそれ以上の知性を持つ存在も当然あり得ると思っている。

で、そんな存在が宇宙船で地球に来ているか云々かんぬんの話の前に、僕が思うことは、「我々人類と同時代に、他の知的生命体が存在すると考えるのは無理がある」と思っている。

地球が誕生して46億年、その中で人類が誕生してから確かまだ30万年ほどのはずだ。地球の46億年を24時間に例えると、人類が誕生したのは23時59分、つまり、人類の歴史というのは、24時間におけるたった1秒程度でしかない、ということだ。

宇宙全体の規模から見れば、人類が生存している期間はあまりにも短い。そして、そんなあまりにも短い期間とまったく同じタイミングで、他の天体で知的生命体が生まれていると考えるのは、結構難しいと思う。

だから、「知的生命体」の存在は許容するが、それは人類が生まれる前に存在したかもしれないし、人類が滅びた後に誕生するかもしれない、という意味を含む。そして、「我々人類と同時代に知的生命体が存在している可能性はほぼないだろう」というのが僕の意見だ。

当然、同時代に生きていないのだから、「宇宙船で地球にやってくる」なんてこともない。ただ、「知的生命体がタイムトラベルの技術を開発しているのだ」という主張を繰り出してくるのならば、「未来の知的生命体が、タイムトラベルによって現在の地球にやってきている」という主張が成り立つ余地はあるが。

もう1つ。「知的生命体」の身体についても思うことがある。これは、J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」というSF小説を読んで初めて理解したことだ。実はこの小説、映画の中でちょっと映っていた。「UFO愛好家」が集まるバーみたいなところで自説を力説する男性が手に持っていた。

「星を継ぐもの」は、月面で遺体が発見されるところから始まる。しかしその遺体はなんと、5万年前に死亡していることが分かったのだ。姿かたちは地球人にしか思えないが、5万年前の人類が月までたどり着く能力を持っていたとは思えない。

一体この遺体はなんなんだ? というところから物語が始まる。これを、非常に納得感のある形で解決し、その解決によって壮大なドラマを描き出す、SFの傑作だ。

「星を継ぐもの」では、この遺体に関して、世界中の科学者が集まって議論が行われるのだが、その中で、「別の星で進化した生命体が月にやってきて死亡したのではないか」という仮説を出す。しかしその仮説はあっさり否定されるのだ。

その理由は明快だ。別の星で進化した生命体が、人類と同じような身体を持っているはずがない、というのだ。重力や気候など、様々な条件が異なる。身体は、外的要因に適応して進化するのだから、地球で進化した人類と同じようになるはずがない、というのだ。

さらに面白い話が紹介されていた。人間の「目」の話だ。実は人間の「目」というのは、進化の過程でミスがあり、そのミスがそのままコピーされ現在に至っているという。人間の「目」は、視神経が直接眼球に接続されている。これは、「目」の構造としては大問題だ。何故なら、「視神経が繋がっている眼球部分は光を感知できない」からだ。これがいわゆる「盲点」と呼ばれている。人間の目には、原理的に光を感知できない部分があり、すなわち、人間の視界には一部「見えない点」のようなものがあるはずなのだが、脳が視界の情報を補っているからこそ、僕たちは普通にモノを見ることが出来ているというわけだ。

このように、人間の「目」は「エラーが生み出した構造」を有しており、普通に考えればこの機構が他の知的生命体に採用されているはずがない。しかし、「星を継ぐもの」の中で発見された月面遺体も同じ目の構造を持っているので、「他の星で進化して、たまたま人間と同じような身体を獲得した」という可能性はあり得ないということになるのだ。

こういう理由から、「知性を持つ知的生命体の身体が、地球人と似た形」と考えるのは合理的ではない。だから、「人間っぽい身体を持った地球外生命体」に関する情報は、すべて誤りだと思った方がいいだろう。

以上が、僕の「UFO」「地球外生命体」に対する考え方である。

しかし、先ほども書いたように、僕がどういう主張をしようが、「未知の存在」研究家の方には関係がない。原理的に「否定されることがない」という性質を持ち、それ故に安心して信じられる分野なのだから、外的などんな「否定」「や「批判」も意味をなさないのだ。

それは「趣味」としてはとても良い性質だと思うし、全然否定するつもりはない。しかし、そういう性質故に、「庄司哲郎」のような人物が紛れ込んでしまうことも、また事実と言えるだろう。

内容に入ろうと思います。
監督は、「YouTubeにアップされていた月面異星人遺体動画」をきっかけにカメラを回し始める。「UFO愛好家」のグループの中にも入っていくようになるが、その中に、庄司哲郎という俳優がいた。UFOを見たとか、宇宙船に連れ去られたという体験を、グループの中で語っており、さらに次第に「UFO愛好家」の中では、「庄司さんは凄い力を持っている」と認識されるようになっていく。

というのも、庄司哲郎は「必ずUFOを呼べる」からだ。彼と共に撮影に行くと、庄司哲郎は必ずUFOらしき何かが映った写真を撮るし、夜空を見上げればUFOらしき何かをみんなで目撃することになる。

監督は庄司哲郎をコーディネーターとして、様々な場所でUFOの撮影を敢行する。やはりその度に彼は、UFOの写真を撮る。凄いじゃないか、と思うようになるが、あるUFO撮影の取材の日、庄司哲郎が来なかった。大家に聞いても、庄司哲郎の彼女に聞いても、状況は分からない。

しかしその後、衝撃の事実が判明する。庄司哲郎はなんと、覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕されていたのだ……。

出所後、再び庄司哲郎に密着することになるが、彼にある疑惑が生まれ……。

というような、「庄司哲郎」という人物を中心に据えたドキュメンタリー映画です。

正直、冒頭からしばらくの間、「月面異星人遺体動画」についてあーだこーだしている部分や、庄司哲郎とUFO撮影をしている部分なんかは非常に微妙で、「これはちょっとダメかなぁ」と思った。しかし、庄司哲郎が逮捕されてから、こんな言い方をすると良くないが、俄然面白くなった。この瞬間、映画の主題が「UFO」ではなく「庄司哲郎」だと分かったからだ。

覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されてから出所に至るまでのドタバタも興味深いが、やはり映画の核となるのは、出所後に明らかになる「庄司哲郎の疑惑」だ。具体的には触れないが、僕は庄司哲郎の行為を「否定という土壌がないからこそ起こりうる状況」と捉えたし、つまり「庄司哲郎」を描き出すことで「UFOを研究するとはどういうことか」が明らかになっていく過程が面白いと感じた。

昔テレビ番組で、面白い話を知った。日照りが続いて農作への影響に悩んでいる地域に向かい、「確実に雨を降らせる」と主張して本当に雨を降らせ大金を稼いでいた人物がいた、という話だ。

普通に考えればそんなことができるはずがないが、その説明が面白かった。

まずこの話は、現在のような「天気予報」が生まれるずっと以前の話だ。そして、そういう世界でその人物は、「空の動きを見ることで直近の天気の変化を予測する」という能力を独自に身に着けていた。つまり、「近い内にある地域に雨が降るかどうか」を、割と高い確率で予測できたというわけだ。

あとは簡単だ。これから雨が降りそうだという地域に行って「雨を降らせてみせます」と言えばいい。名が知れて全米から依頼が来るようになったらしいが、それからも、「雨が降りそうな地域」の依頼だけ受ければいい。

あるいは何かの本で、こんな話も読んだことがある。以前アメリカに、「超能力を研究する研究所」が存在していた。そこに、ある1人のマジシャンが目をつける。彼はこう考えた。仮にその研究所に「自分は超能力者です」と主張して潜り込み、彼らに「超能力がある」と認定されれば、マジシャンとしての自分の名前は高まるだろう、と。

そこで彼はそれを実行に映した。彼は数年に渡り、様々な「超能力実験」に掛けられたが、自らのマジシャンとしてのテクニックを最大限駆使し、その場その場でトリックを考え続け、ついにその研究所が、「この被験者は、間違いなく超能力を持っていると言える」と発表するまでになったのだ。

その後このマジシャンは、「自分は超能力者ではなく単なるマジシャンだ」と発表して大騒ぎになった。この出来事によって、「超能力研究」は衰退したという。

このような話は、「未知の存在」を研究することの難しさを端的に理解させてくれるだろう。

映画の後、トークショーがあり、映画にも出演していた「竹本良」というUFOを研究家も登壇した。彼は、「一神教から生まれた科学は『唯一の真理』を追うが、多神教が基本の東洋では『唯一の真理』は向かない。科学には収まらない領域は存在すると思う」という話をしていた。

その話にも、僕は賛同する。確かに「科学」というのは「1つの物事の捉え方」でしかなく、すべてを「科学」というメガネを通じて見なければならないわけではない。「科学」が重視されるのは、「客観的に『正しさ』を判定する上で、人類が生み出してきた方式の中で、現時点で最良のシステムだから」に過ぎない。そういう意味で僕は「科学では判定できない『正しさ』が存在する」という主張も、全然受け入れる。

だから、そういう観点から彼らを否定するつもりはない。

ただやはり、この映画を見ていて、「『学問』であると主張するには、批判が足りなすぎる」と思う。もちろん「趣味」であれば何の問題もないが、彼らが「UFO研究は『学問』だ」と主張するのであれば、その時には、「それは違うと思う」という考えを示そうと思う。

あと、マジでどうでもいい話なのだけど、エンドロールを見ていたら「太賀麻郎」という名前が出てきて驚いた。以前『AV黄金時代』(太賀麻郎/イースト・プレス)という本を読んだことがあって知っていた。同姓同名の別人とかでなければ、AV男優のはずだ。ネットで顔を検索しても、映画に登場していたのかどうかまったく分からないが、出てたのかなぁ。

誘われて観に行った映画だったが、自分では絶対に観ようと思わなかった映画なので良かった。観る前は胡散臭い映画にしか思えなかったし、確かに胡散臭い映画なのだけど、想定していた胡散臭さではなく、ちゃんとドキュメンタリーで面白かった。
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