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バーニング・ゴーストのニューランドのレビュー・感想・評価

バーニング・ゴースト(2019年製作の映画)
3.6
☑️『バーニング·ゴースト』(3.6p) 及び セシリア·マンジーニ作品集*▶️▶️
*8本の題名①’60『STENDALI : SUONANO ANCORA(Stendaliー未だ祈る)』(3.9p) ②’60『MARIA E I GIORNI(マリアと日々)』(4.2p) ③’63『DIVINO AMORE(神の愛)』(3.8p) ④’65『ESSERE DONNI(女であること)』(4.0p) ⑤’66『BRINDISI ’65(ブリンディジ’65)』(3.4p) ⑥’65『TOMMASO(トマソ)』(3.4p) ⑦’62『LA CHANT DELLE MARANE(Marane川の歌)』(3.4p) ⑧’74『LA BRIGLIA SUL COLLO(首の手綱)』(3.4p)
『バーニング~』は、極めて優しく端正なトーンの作品で、全ての基調はグレーか沈んだブルーの質感で敷き詰められているようで、白い陽光自体が存在を主張してくるか、或いは光自体に色があるようで、本作の事象の存在感は、それこそ作品テーマの、「夢か幻か」の手触りである。時折赤他の物の持つ色自体が存在してるかのような質の核も現れる。音楽や人物像の口調·動きも激しさには至らず、動きや視界についての揺れ、その角度の位置の特殊性はあるけれど、アップ、そこへ少しずつ寄ってく、切返しの正確さ、時にサイズを退きめに心理に合わせ変える力、ときにズーム大きめ、90°変やどんでん補助の的確さ、主人公の朦朧に合わせて背後が対面者の喋ってる世界に自然に移り行く·見てる鏡に自分の背面が写る·そこにいる存在を認知できる人と出来ない人の世界の混在処理·OLで体感だけの性交描写らのトリッキー描写すらフワフワとナチュラル、とスタイルも非常に個性を削いで模範的·標準的·親しみと律儀の同居で、作品の個性が浮き出すというより、レネ·是枝·ニコルらの最初期ではないが少し落ち着いた初期作のほうの連想イメージが実物より勝ったりする。
「やり残した」事を果たす「チャンス」という「希望」を与えられた死者らの、みずから仲介役も任される内に、身を隠したり·長期化もする者たちも。という内容で心残りの相手も困惑·探求の中、死の世界に巻き込んだりもしてゆくも、生死を超えた「本当の実感」の歓びとその継続のかたちを手にしてゆく内容。作家個性のない透明感が、別の個性足り得てるというには、通俗的に崇高を拒否したような、弛みもみえ、またそれも悪くはないなと思ったりもする。
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本作を観た(旧)日仏学院の4月予定を知ろうとしていて、この作が影響を受け、逆にゲスト?出演を願った、日本では未だ認知度低い長老ドキュメンタリー監督の作品が、翌日までネット配信されてることを知る。もう寝る時間だしと、21日は深夜まで仕事なので、食事時間等で短編数本をザッと流し見でもするかとなる。ノースーパーと英語スーパーばかりだが、もとより中学英語も出来ないくらいなので、本当に流す。
しかし、勿体ないことをしたと思った(作者が既に昨年コロナの為に物故していた事も)。過半が宝石のような作品だった。しかし、技法·内容が突出しているわけではない(発表当時はその姿勢は、しっかり異端·挑発的で製作·上映も大変だったようだが)。寧ろその種の(他作家による)作品が尖鋭に走り·憤りで生まれた隙間から、蔑ろにしている、観客のベースの感受性·優しさや和みを、繋ぎ自然に埋めてくれてる。幾つかのスタイル·特徴は、対象を正確に自然体で扱ううちに形成されてきたもので、形式·イデオロギーは決められず、映画そのものの手応えが生まれている。宗教的な場·行動が主の、暗みや闇の中の灯等の造型や逐次的に事象を追う古典的完成度を見せつける気もする初期作品も、現実の社会·市井の只中の人々を、モノクロ主体の渇いたモンタージュ感覚主体で描いた(寄る移動からズームも多くなる)中期以降も、対象を善し悪しで裁断していない、相互矛盾·歪んだ意識を抱え対処できぬ·総体の、観る側も切り離せない·愛し·仕方なく受け止め咀嚼せざるを得ない存在として描ききってる。スタイルは決して先行せず、筆致はリードせず、希なる自然と品位·生活リズムを保ってる。対象も形式のドキュメンタリーを越えて、作者の側に入り込み·叙述の半ば共犯者化してるところからの、客観·作意を共に超越したスタイル·まろみもある確か感触だ。退きの真俯瞰ショットの思わぬ入り度々、対して(寄りめ·真)仰角図も、各顔のCUの多さ·印象度、いつしか回り込み·退き·周囲をたどり着け歩いてる·意識前·陶酔に気づく間もないカメラワーク、それは対象とフォローカメラの動感へも繋がる、90°や小角度変やどんでん·アップ移行らのカッティングや図はしっかりとしてる、しかし画面を感得出来ない位の勢いで突き抜けんとするカットや·中心性からはみ出した図が予測外に普通に生命力壗に入る、量は作品によって変わるが不安と直結の現代音楽的なものが永く覆うパートがある、縦横の被写体のゆれる対照運動·存在感の組立、傲慢ではなく語り続けるナレーション(パゾリーニが度々協力)、宗教的な建築物や彫像や絵画·個人的(アルバム)写真や小物の導入はいり方やピタッ極り拡げ方、自由な被写体とカメラの伸びやか動きの放り感、松明·手の灯·灯との数そのものの埋めつくしと個々は自由自律の動き、動画の静止スチル化活用、らが観てる此方を内から馴染みとしても、いつしか支え強めてくる。
とりわけ1·2·4本目が優れている(只、純粋に映画的な完成度なら3本目、伸びやかさなら7本目か)。1本目。少年の遺体·柩を自宅から教会へ送り出すまでの役目の、年配女性らの、啼き嘆き唱え、囲み、白布や顔や体を、左右や上下にあるスパンで振り続け組合す、トランス前の不可思議で貴重な見送り(それを断ち切り·神父らが割り込み、追従させず、引き継ぐ)の、礼式の内からの真に力と情感ありを、同等の形式上表しを成す。
2本目。宗教的権威もあるような、地方の影響力のある老女の半日。あちこち馬車で廻り地域に役立ち、苛立ちや健在アピールを内に抱え、自宅にあっても家族や日常に係り煩っての忙し暇なし、しかしハロウィン絡み邪気も多い子供らとの自然な係わり、皆が寝入っても過去や周囲に自然想い巡らさざるを得ない·また画や像の宗教的なものと向き合う·祈る余裕の内面の懐ろ、夜が明け其のまま畑へ。部屋内の壁の掛けた様々な公私の物ら、あちこちに寝入ってる家人の横や上や奥の配置の立体空間の、感覚·再発見の留まらないようなカメラ移動の感覚的には横に流れ廻る不可思議さと、直後ピタッと部分占めを示し·切り替わる内からの節度、が幾つもある、魅魔力ある流動的懐ろ表し続ける核の最上の物だと思う。
4本目、これだけは他が10分強に対し30分、一気語り尽くす。カラフル公告や核らの脅威軍事政治に囲まれた、働く現代イタリア女性の肖像の多面と現実的閉塞、賃金少しでも多く獲得にひきづられる価値観、工場から戻っても家事の時間が暇を与えない、貧困や教育と無縁さ、南北等出身格差、子育て·保育の為の家族や施設絡む負担の大変さや共働き夫とのすれ違い続き、女3世代位も進展なし·同居連続的抜け出せない後進性、農作業·危険·外国·内職とあらゆる場と形態を埋めるは軽視·扱い不安定故、恋人の刺激やデモ·ロックアウトの結果的無力感と「自由」への予感。他の現代生活を扱った作品が一方乗り物快感やマリオネット比喩·職業教育的精度など、はめ込み複層の、筆致·操作感があるのに対し、これはその操れぬ羅列·張り詰め·感性満杯·思考不能と、その作ってない熱度·隙間ない拡がり·内からの無意識沸上がりは、まるであの『あの家は黒い』のボルテージが甦ってくる完全作だ。
初め辺に述べたを感覚的に云うと、溝口·吐夢の後の田坂、ルノワール·ヴィゴの後のフェデー、ゴダール·レネの後にシャブロルを観たかのような、傲りと無縁な映画そのものの、希求力·安心拠り所が掴める。
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