JFQ

MONOS 猿と呼ばれし者たちのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

MONOS 猿と呼ばれし者たち(2019年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

南米?の高地で集団生活を送る少年少女ゲリラ兵8人=「モノス(猿の意味)」の物語。物語というがゲリラ組織は何と戦っているのかは描かれない。また、モノス達は「博士(米国人女性)」と呼ばれる人質の監視や、牛の管理を命じられているが、それが何のためかも描かれていない。では、映画は何を描こうとしているのか?

一般的な戦争映画が戦争を「目で捉えている」とするなら、この映画はいわば戦争を「唇で捉えている」(のだと思う)。

「目」と文字が結びつくことで社会が進化したこともあり、人間の「目」は「考えること=観念」と密接に結びつく。そもそも「観念」という言葉自体、見る(観)ことと、思う(念)ことが密接に結びついている。

そのため「目で捉えた戦争」の世界は「国と国との利害」や「テロ組織の大義」など「観念」が大きな位置を占める。それらは触れるものというより「頭の中」にあるものだ。

だからこそ「目で捉えた戦争映画」の多くは、大義や利害を守る「必死さ」を描き、大義や利害を実現する「勇敢さ」を描く。もしくは、その逆に大義や利害(=観念)のために人の命が奪われる「悲劇」や「理不尽さ」などを描く。つまりは戦争が「シリアス」に描かれる。

対して「唇で捉えた戦争」は官能的だ。官能は「頭の中にある」というより「全身にある」。
不謹慎な言い方かもしれないが、映画で描かれる少年少女ゲリラ部隊は、なんだか「楽しそう」だ。ゲリラ戦の準備というより祭りの準備のようにもみえる。

そこでは「考えること」の象徴でもある「博士(人質女性)」の視線映像は「ぼやけ」「二重化」する。そして博士の目は蚊の大群に刺され、つぶされる。

一方で、少年少女たちのキスが印象的に描かれる。男子×女子だけではない。男子×男子、女子×博士など映画内にはキスが氾濫する。

彼らは唇と唇を合わせ互いに一体化するように、森や土の色と一体化し、川の流れと一体化する。唇に手のひらをあて、鳥のさえずりのような音を出し合い、互いの音を共鳴(一体化)させる。

彼らにとって戦争は、いっしょに牛の肉を食うことであり、いっしょに人質を探すことだ。言ってしまえば、互いに共振するための(一体化するための)イベント?だ。

「大義」や「利害」などはゲリラ本部の無線から流れてくる「ようわからんもの」であり、ゲリラ部隊の上長のハードな規律訓練のように「苦をもたらすもの」でしかない(いや、それすらもランニングハイのような享楽的なものとして描いているので、苦しかないというのは言い過ぎかもしれないが)。

とはいえ、彼らも人間である以上「目」はある。
だから「目」の側に吸い寄せられていくメンバーもいる。映画では8人いる青少年ゲリラの1人(ランボー少年)が「群れ」から脱走する。
しかし、その後に拾われた「目の世界」は「官能」という観点から見れば貧しいものだ。脱走後に拾われた家の住人たちは互いに唇を合わせるどころか、全員テレビを観ており、顔すらみない。
また、テレビから流れてくるのは「グミがたくさん作られています」というクソどうでもいいものであり、工場で不良品のグミが捨てられる光景だ。「噛むことの官能」などとは程遠い。

そんな世界に触れたランボー少年は、結局のところ、拾われた家から走り出し、大河の流れに身を任せることとなる。そしておぼれかけたところを国の?救助部隊に捉えられ、ヘリで運ばれていく。

映画はそんなランボー少年の「涙目」を映し幕を閉じる。「捕らえられた猿」は「目でみる世界」に触れ何を思ったのか?「唇で触れる世界」について今はどう思うのか?

「この映画は唇で捉えた戦争=官能を描いている」と書いた。だとすれば、映画は戦争を肯定しているのか?どうだろう。むしろ我々が「唇で捉えた世界」から離れてしまうことで「観念(大義、利害)の肥大→戦争」が起きると言っているのではないか?

だとすれば「戦争批判」の映画だろうか?「やっぱキスだよ!愛だよ!」と。どうだろう。我々は「古代の戦争」から「現代の戦争」まで「戦争」という言葉でひとくくりにして語るが、それらの意味合いは、時代時代で異なるはずだ。その意味でいえば「現代の戦争(観念の肥大による戦争)」は批判するが、戦争のある部分は肯定?しているのかもしれない。
例えば、我々は「戦争は悪だ」とは分かっているが、それでも「1VS300!この戦いに勝てるのか!?」みたいな映画があると、血をたぎらせながら見てしまう。その時感じる「官能的(享楽的)」な部分については肯定しているんじゃないかとも思える。

映画(表現)は、すでに正しいと分かっていること、すでに美しいと分かっていることをなぞるためばかりにあるのではない。美しいと分かっている線を美しくなぞって「ね?美しいでしょ?」と言うためにばかりあるのではない。我々が見えているはずなのに見ていなかった線や、まだ見たことがない線を描くためにもあるのだと思う。
JFQ

JFQ