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失くした体のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

失くした体(2019年製作の映画)
5.0
【何も与えることができない青年が《何か》を与えるまで】
昨日から、Netflixで『失くした体』が配信されています。本作は、カンヌ国際映画祭批評家週間でグランプリを受賞したことを皮切りに、アヌシー国際アニメーション映画祭等世界中の映画祭を片っ端から受賞して回り、今年激戦区だと言われている米国アカデミー賞のアート映画枠ノミネート最有力だとささやかれている作品だ。何と言っても、そのユニークなあらすじが特徴的で、片手が、記憶を頼りに持ち主のところを目指すアドベンチャーなんだそうだ。片手が主人公というヴィジュアル先行型、アニメ大国日本でもぶっ飛びすぎていてそのアイデアは企画会議を通過できそうにないのですが、それをやってのけてしまうのがフランスの強いところ。友人も絶賛していたので観てみました。

監督のジェレミー・クラパンは元々出版社でグラフィック・デザイナーとして活動してきた人物である。彼はやがて広告会社で働くようになり、その頃から短編アニメーションを作るようになります。2004年にうつ病の男と動物の交流をコミカルに描いた『Une Histoire Vertebrale』でアヌシー国際アニメーション映画祭コンペティション部門にノミネートしてから、映画祭常連監督となり、『Skhizein(2008)』、『Palmipédarium(2012)』が出品されています。前者は観客賞を受賞する快挙を成し遂げている。そんな彼が初長編に選んだ『失くした体』は『アメリ』の脚本家で有名なギヨーム・ローランの小説『Happy Hand』に基づく話である。2011年にプロデューサーであるMarc Du Pontaviceが本作の映画化に適しているとクラパン監督に話をもちかけたことが事の発端でありました。当初、ストップモーションアニメを想定していたのだが、予算の問題、そしてイラストの方が抽象的で精密な表現ができるという事で現在のスタイルになりました。

さて、そんな作品『失くした体』は一歩間違えればよくある閉塞感もの、陳腐なお涙頂戴ものに陥ってしまうものを《片手》という奇抜なアイデアで一歩抜けた存在へと昇華した作品であった。その奇抜な《片手》という要素は単なる、出オチではなく、物語を象徴する意味を抱えている為、堅牢な物語に仕上がっており好感しか湧かなかった。

片手は持ち主を求めて施設から逃げ出す。片手は持ち主との記憶を、白黒、カラー入り混じり曖昧な状態で過去から現在を結びつけるために旅をするのだ。そして、そこにアニメ的スペクタクルがコミカルに押し寄せてくる。例えば、草臥れた手を鳩が落とそうとする。すると、鳩の首根っこを掴み、殺したり、フワフワと飛ぶ傘に掴まり移動したりするのだ。実写やストップモーションアニメだと現実との違和感により臭みが出てしまうであろうファンタジー描写も、イラストだから難なく面白さを増幅させることに成功している。

そして、そのような手のアドベンチャーの裏で主人ナウフェルが手を失うまでのプロセスが描かれる。両親を失い、その後も冴えない人生をトボトボと歩く青年ナウフェル。彼は自分に自信がなく、何をするにもドジばっかりだ。ピザ配達のアルバイトをすれば、目的地に遅れて到着。電話の主に怒られ、なんとかその場をしのごうとするが、火に油しか注げない。結局、ピザはぐちゃぐちゃで受け取ってもらえない。町工場に「働かせてください!」とやってくるが、建物に入りそうそう、ペンキを塗ったばかりの板に手を置いてしまう。

こう聞くと、やっぱり主人公のどん底で釣ろうとしているあざとい映画でしょ?と疑いたくなるのだが、脚本の鋭さがそれを払拭する。女と出会い、会話をする。「以前は何をしていたの?」、「うーん、スシのアルバイトさ」とナウフェルは嘘をつくのです。そこには、社会のどん底にいる彼が少しでも自分を大きく見せたいという意識が現れていると言えよう。

そして、彼は彼女と親睦を深めていくうちに、何も与えることができない彼が彼女に《何か》を与えようともがく物語へと化けていく。

こっから先はネタバレになるので、実際に観ていただきたいのですが、その着地点に涙しました。
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