ナガエ

サクリファイスのナガエのレビュー・感想・評価

サクリファイス(2019年製作の映画)
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かなり好きな映画だった。
驚いた。
驚いた理由はいくつかあるが、理由の一つは、この映画が大学生によって撮られている、ということだ。
しかし、「大学生が撮った映画にしては凄い」なんてことを言いたいわけではない。



【置いてかないで!私も連れてって!】

分かるなぁ、と思う。特に、近くに、「境界」をあっさり越えているように見える人がいたら、なおさらだ。

子どもの頃、台風が来ると、なんかワクワクする感じがあった。今も、微かにそういう感覚は残っている。大人になった今は、めんどくささの方が勝つ。会社への出勤、窓ガラスが割れないための準備、出かける予定のキャンセルなど、台風が来ることのめんどくささの方が多くなって、そんなにワクワクすることはない。

でも、どこかに、何かを望む気持ちは、やっぱりある。

その「何か」を具体的にイメージしているわけではない。でもそれは、映画の登場人物の一人が言う、

【あの時は、何かが大きく変わる気がしたんだよね】

の「何か」と同じだ。そう、「何か」変わるんじゃないか、というような気持ちが、どこかにはある。

僕は「普通ではないもの」にしか興味が持てない。「普通」という領域に収まっているものに、わざわざ触れる必要があるとは思えない。それは、別の誰かが触れてくれればいい。僕は、「普通ではないもの」と関わっていたかった。

でも、子供の頃は、それがとても難しかった。それは、大人になった今振り返って考えてみると、「普通を手放すのは怖い」と「普通を手放すとめんどくさい」の2つが混じり合ったものだったような気がする。「普通」という属性は、退屈ではあるが、一方で盾でもある。「普通」という属性をまとっていさえすれば、社会の中で変な注目もされず、言動が埋没され、「その他大勢」でいられる。それは、「不自由さ」ももちろんあるが、ある種の「自由」でもあった。子供の頃、別の方法で「自由」を勝ち取れると知っていれば、また違ったかもしれない。けど、僕は、「自由」を得る方法が、「普通」という属性をまとうというやり方しかなかった。

大人になってからも、なかなか「普通」を手放すのは難しかった。子供の頃のイメージのままで当然見られるし、また、大人になればさらに、「普通」という属性が持つ盾の力を感じるようになったからだ。ただ僕は、「普通」の「不自由さ」に取り込まれそうになっていて、そこからなんとか「普通」を自力で抜け出す努力をするようになった。

なんだかんだで、自力でなんとか「普通」をそれなりに抜けられたと思っているけど、ただ僕にとって「普通」というのはやはり、自らの力で離れていくのは難しいものだという感覚は今も持っている。

だから、外部の力に頼りたくなる。

僕の意志とは違った何かによって、僕や僕の周りの環境が「普通」ではなくなること。それは、まだ「普通」を抜けられていなかった昔の僕にとっては、希望に見えていたことだろう。

この映画の凄さは、その「外部の力」として「東日本大震災」を描いているということだ。この点については、また後で触れる。

内容に入ろうと思います。
2011年3月7日。新興宗教<汐の会>の施設で母親と共に生活をしている少女「アプ」は、ある日、自分が見た夢の話をした。巨大なミミズが蠕動し、巨大な津波がすべてを飲み込み尽くす夢だった。7年後、彼女は大学生となり、「アプ」であったという過去は隠して、本名の翠として、ごく普通の生活を送っている。
同じ大学に通う塔子は、一つ上の先輩・正哉と付き合っている。正哉は今まさに就活中であり、日々大変な様子だったが、塔子は「良き彼女」として正哉を気づかったり優しい言葉を掛けたりする。
一方で彼女は、同じ大学の沖田に興味がある。彼女は、沖田のバッグから奪ったスクラップブックを盾に、沖田に付きまとう。そのスクラップブックには、最近話題となっている猫殺しの新聞記事がスクラップされていた。最初に見つかった猫に「311」と赤文字で書かれており、以後カウントダウンのように数字が減っていく。311匹の猫が殺された時に何かが起こると噂されている。塔子は、愛想は良いが他人にまったく関心のない沖田が何を考えているのか知ろうとする。
同じ大学の神埼ソラという学生が川辺で殺されているのが見つかったり、<しんわ>という新興宗教が学内にはびこり、学生をリクルートしては中東に人を送っているという噂も回っている。翠は、幼い頃に施設から脱走した際に、同じ施設にいた男の子からもらったお守りを学内で落としてしまったことから面倒なことに巻き込まれ…。
というような話です。

僕としては、かなり好きな映画でした。全体の物語としては、好き嫌いが分かれそうな感じではあるけど、僕は凄く好きだったし、後で書くけど、東日本大震災の扱い方がチャレンジングで良かった。全体的には役者の演技はそこまで上手くないと思ったのだけど、主役の一人である沖田を演じた青木柚って役者は良かったなぁ。彼はとにかく、無口でボソッと喋る、セリフが極端に少ない役なんだけど、喋っていない時でも画面がもつ。顔が整ってるってのももちろんあるだろうけど、それだけじゃなくて、凄く雰囲気があるんだよなぁ。映画の後、監督や役者たちによる舞台挨拶があり、青木柚は来てなかったけど、共演者たちから、撮影時16歳だった、という話を聞いて、さらに驚いた。なんかどこかで見たことある気がする、と思ってネットで調べたら、以前みた「教誨師」って映画に出てたみたい。

映画のラストで、沖田について言及する場面がある。そこで語られる「沖田像」というのは、日常生活の中ではなかなか出会わないだろう異質な存在だ。普通だったらなかなかイメージしにくいだろう。しかし、青木柚は、そんな「沖田像」を容易に想像させうる雰囲気がある。沖田役の俳優はギリギリまで決まらなかったと共演者が話していたが、彼を選んだのは大正解だっただろうと思う。沖田が持つ独特の雰囲気というのは、この映画を構成する要の一つだと思うので、もしかしたら彼でなかったら成立しなかったかもしれない。

ストーリー的には、色んな要素が入り混じってたり、最後の方でいろんなことばバタバタっと畳み掛けられたりと、もうちょっとシンプルに出来たような気もしなくもないけど、逆にその入り組んだ感じが、「東日本大震災」という要素をある意味で背景に押しやっているようなところがあって、そういう意味では正解だったとも思う。

そう、東日本大震災の描き方である。これについては、福島県出身だという役者の一人が、舞台挨拶で語っていたことが、まさにすべてを言い表していると思うので、それをまず紹介する。

『僕は福島県出身なんですけど、いわゆる震災モノの物語って、どっちかっていうと嫌いなんですよね。どうしても震災を扱うと、”希望”とか”喜び”みたいなところに収束していく感じがあるけど、そういう展開はどうも苦手なんです。東日本大震災は、”希望”とか”喜び”の踏み台のためにあるわけじゃないぞ、と』(正確な引用ではないので悪しからず)

まさに言い得て妙、という感じだった。僕は別に被災地周辺の出身ではないが、震災モノに対して似たような感触を抱いていた。もちろん、世の中にあるすべての震災モノに目を通しているわけではないし、別の扱い方をしている人もいると思うが、大多数は同じような方向を向いていると思う。

そしてそれは、「そう描きたい」というよりも、「そう描くしかない」という発想から生まれているように邪推する。つまり、東日本大震災というものを”きちんと””正しく”扱わなければ、批判され、大きなダメージを追うかもしれない、それを回避したいという気持ちがどうしても働いてしまうのではないか、と思うのだ。こういう邪推は、真剣に表現と向き合っている人たちに対して失礼な発言だと思うが、僕自身が刃を向けているのは表現者ではなくむしろ受け手だ。表現者が回避しているとすれば、それは、「受け取る側が成熟していない」と判断されている、ということだ。

この映画では、冒頭でも触れたように、東日本大震災を「外部の力」として扱う。それは、語弊があるかもしれないが、「東日本大震災」という固有名詞ではなく、「史上最大級の災害」という一般名詞として扱うような感じだ。こういう扱い方には、勇気が要っただろう。しかし僕は、こういう物語も存在した方がいいと感じたし、この物語は、「東日本大震災」というものをむしろ背景に押しやりながら、全体としてうまく成立させていて見事だと思う。

もしかしたらこんなチャレンジングなことが出来たのも、上映されるかどうか決まっていない中で撮影が行われた、ということも関係しているかもしれない。舞台挨拶で監督が、撮影時には、どんな形での上映のアテもなかった、と言っていた。あらかじめ、商業映画として公開される前提で撮影されていたら、こういう物語は成立できなかったかもしれない。そういう意味でも、色んな要素が組み合わさって成り立っている物語であると感じた。

この映画は、「第一回立教大学映像身体学科研究室スカラシップ作品」として作られたようだ。立教大学には、映画製作に関する学科があり、そこには篠崎誠を始めプロの映画監督が講師として教壇に立ち、実際に立教大学からはプロの映画監督が多く出てきているという。

出演者の一人が、ある驚きを語っていた。この映画は、スタジオで撮影された部分もあるが、立教大学内に立派なスタジオがあり、学生はそこを使えるのだという。そういう意味でもこの映画は、そこらの学生映画とはレベルが違うと思う。役者の演技はやはり一般的な商業映画とのレベルの差を感じるし、あとちょっとだけ音声で気になる部分がいくつかあった。役者のセリフが聞き取りづらい箇所がいくつかあったのだけど、それは、僕の印象では、役者のせいというよりは、音声側の処理の問題のような気がした。あとは、まあプロの目から見れば色々粗はあるんだろうと思うが、僕には、一般の商業映画と遜色のない映画に見えた。

この映画は、篠崎誠のゼミで出された、「東日本大震災をテーマにした脚本を書く」という宿題から生まれたそうだ。東日本大震災をテーマにと言われて猫殺しの脚本を書いてくるのも凄いが、実際にそれを撮影して、最終的に映画館で上映するところまでもっていってしまうところも凄い。これからの可能性を感じさせてくれる良い作品でした。
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