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わたしの叔父さんのニューランドのレビュー・感想・評価

わたしの叔父さん(2019年製作の映画)
3.4
☑️『わたしの叔父さん』及び『ホモ·サピエンスの涙』▶️▶️
一見、目立たないが、本物の何かを思い出させる二本立て。
『~叔父~』は、嘗ての日本映画の1ジャンルにあったような、与えられた環境への誠実な向き合いと抜け出せないジレンマの同時存在を、新しい刺激·変化の可能性を得て、逆に価値を見直す、といった内容で、スタイルも気負いのない静謐·覚悟が自然体で感じられて、先日観た『朝が来る』同様、誰にでも薦めたい銘品。現代的な洗い直しも、シャープだ。
押さえ込んた色彩·明度で、暗い室内·屋内に入り込む朝光や淀んだ空気の質感が濁りなく、屋外·自然の朝昼夕夜の伸びやかな陽光の具合変移や数十頭の牛·豚·猫らや大型農機具らの存在も美しい作で、基本フィックス、食卓などは俯瞰め退きめで固定、牛舎等の深い懐ろとシャープな図も素晴らしく、窓や半開き引戸越しとかで·望遠の寄り·CUもが、切返しや90°変·低い位置取りもでしっくりくみあわさったのが挟まり、露骨な感情や行動は表されず、例外が突出するは、気持ちに変化が現れた時、食卓は低めやや傾いた図で捉えられ、家族の片方の異変に駆けつける時、カメラは負い目以上に反応動揺し、手持ちで揺れ追い動く。
14歳時、片親の父が自分を残し·弟の後追い自殺をし、一人で農場経営の叔父に引き取られることに。獣医大にも合格するも、高3時叔父が倒れ、以降身体が不自由となった叔父に付きっきりの26~7歳の女性。変わってると云われてもひたむきに務め、独学で老獣医と呼応し合い獣医学を深めてもいる。教会の聖歌隊を偶然目にして、そこのメンバーの青年と恋に落ちるも、叔父も加え、形としては2人だけでは会わない。しかし、心は揺れ、獣医のコペンハーゲンでの講演にも、慎重にだが同行する。しかし、その2日間に叔父が倒れ、それまで形だけとなって心では苛立ちも現れてた介護共生から、叔父の存在を見つめ直す。それからの頑なさに「一生付き添える訳ではないのに」と思わず口を滑らせた恋人(を一時拒むも、将来的には、叔父と同じく、受動ではない出会い·関係の重さ·意味に行き当たるだろう)も含め、彼女と各々との意志的な抱擁のかたちが味わい深く美しい。
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年末以来の『ホモ·サピ~』の、それ以上の自然体に、不思議にやはり感動す。シーン間に長短のBOが入り、街を丘のベンチから見ている中年カップルの女の声とも違う気もするが、目撃を語り纏めるオフの声の導入と括りカブり、空中の恋人の浮遊感·動き以外は、全てにフィックスの退き図で、しかもそんなに従来作のように長くはなく、しつこさ·念押し·奇妙さにいたる前で、日常の呼吸·些事追いたてられのスパンが断ち切ってゆく、どこか東洋的無情感·諦観が人間の観照のあり方自体とリンクするものとなっている。
室内の特異部屋間繋がりや·屋外の壁や道路に強く囲まれた図の、建て込みの密度·質感·重みは現実のものを超えたリアリティを持ち·その感触だけでも一瞬が永劫と刹那の両面をあくまでナチュラルに示し、背景·窓外も、手前からずっと奥の続きも、平面に作り上げても現実以上の造型で、これら世界は静かに染み込み根付く。
空中で雲海や廃墟となった地上の街の上を游ぐ恋人らのほか、現代の路上でのゴルゴダの丘に向かう十字架背負わされてのイエス、冬捕虜の列が収容所へ向かう長い列といった、半ば非現実のシーンは、音響だけは次のシーンに流れ、悪夢から目覚めた人間とリンクしたり、旧友との再会でその段差を気にするのを·それよりも日々あった充実の事を噛みしめるべき·と奥さん、信仰を失った牧師が頼る精神科医は営業·金本位のギャップ、等のエピソードらは間を置いて繰返し語り継がれたり、してゆき、世界の矮小な押し隠してる内の感が抵抗なく滲み出てくる。異なった種類の人間らが偶然に会し、歓ぶ感情が一方の訪れた側に巻き上がったり·人混み中の突然の夫婦間の憤りの暴力と忍耐の愛が突き刺し合ったり、する。もっとあっさり、人間感情を欠く管理職の振り返り、場所を間違えて着く、路肩で車故障まま、等のカットも。大した事件·驚きの展開があるわけではなく、瞬間毎が自立したイメージ·造型·調和を実現してて、その映画的な工作·操作を必要としない、滋味や深い意味での威厳がある。こちらはなかなか薦めらないが、それ以前の大元の価値の実現体である。
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