ニューランド

土曜の午後にのニューランドのレビュー・感想・評価

土曜の午後に(2019年製作の映画)
3.4
✔『土曜の午後に』(3.4p)及び『牛』(3.8p)▶️▶️ 
 福岡市総合図書館とそこでそこが行う映画祭については、アジア映画の情報が少ない分、かなり後で極めて重要な作品が、本年も上映·収蔵されたのだな、と分かって、現地に出向く事が出来なかった(そもそも不幸でもないのに長期の休暇など無理だった)。ディレクターから佐藤忠男氏が降りられると、親近感も失った。やっと3~4日間なら休みが取れるようになって、三年前山形には行けたが、福岡の方は一昨年を最後にイベントは失くなっていた。それまでのプリントは目的に併せ東京にも貸し出され、デジタル化の時代に対応してのブルーレイ化は進められてる、というが、守りの姿勢だけになってて寂しいのは、今回開映前の観客の話からも漏れ聞けたヴェーラから福岡まで全プログラムをカバーしてきた少なからずいる熱狂的映画文化愛好のかなりいる人たちに比べると弱いとはいえ、確かだ。そのデジタル化収容素材の東京お披露目の場。昨日知ったが、もう最終日だった。
 『土曜の午後に』(バングラデシュ)。一幕ものの演劇風であり、'60代末の若松映画のようでもある、南アジアの政治宗教の歪み支配·緊張の縮図を描いた、シャープな作。ムスリムたるか、インド~バングラディシュ、シーア派~スンニ派、の峻別への異常な拘り、が西洋映画のレベルでいっても一級のレベルで描かれ抜く。出だし·タイトルバック下のカッティング·揺れや望遠も、の後は、デジタル時代ならではの、(スマートも実は延々)長廻しの成果、演劇的ステージに近いフロアも、階段絡み勾配や狭いスペースへのカッティング味になる間仕切·廊下導き·また行き来(質問され·追いやられ動く人質の人ら自体の動きも)のフォローで引き締まる。リアルさもあるが、あくまで縮図化の表現。断食期間中のレストランら商業施設内の極秘工作が時間を要し、警察に取り囲まれて、客や従業員を人質に取っての、イスラム教への帰依を一人ずつ確認し、反する者は処刑、それら社会の実態と対処を内外に示すデモに、脱出よりも目的を変える、テログループの凶行の話。
 大量一気射殺ではなく、人質の命乞いに一応耳を傾きかけるも、日本人が最多の客らへはまごつくだけで射殺、スタッフに関しては敬虔なムスリムか、バングラデシュ人を装うインド人ではないか、の問いかけを行い、引っかかれば射殺、敬虔ムスリムでなくも彼女は社会的にも人間として立派と抗議·擁護する者へも、実子を護ろうと苦闘する者にも、考え尽くす前に感性で容赦ない処分。一方、「わざわざ招いて、殺させはしない」とインド人コックらを次々救う偽証芝居、訛りを聞かせない為の唖演技、らにはまんまと引っ掛かかる間抜けぶり。映画としてよく出来てる分、それにそぐわぬ社会·人間の愚かしさがまんま浮かび上ってくる。
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  四半世紀ぶりに、名作『牛』(イラン 69)の再見。35ミリから明晰過ぎるデジタル版に変わっても、やはり、腕力·魅力·独自性は衰えない。パゾリーニの映画のように、個性的なキャラら、石か煉瓦か土らが合わさった·幾何学形の池や塀を共有の、白っぽいルックに、各人個性·全体の人らが織り成す図形へ向うカットらが、逞しく素朴率直に、林立してゆく。黒っぽい隣村からの、夜間を狙っての、強盗3人の脅威が忍び寄ってもきて、忍び暗躍·あからさま抗争がおこってもくる。護るは、村で1頭だけどなった極めて貴重らしい牛。しかも子を宿している。その持主=飼主は過剰に牛に嵌り、周りも神経使ってる。彼が仕事で、村を出てる間に、牛の突然死。牛は失踪した、今、追手を出してると、帰ってきた彼に人々は取り繕うも、綻びが、出始める。いつしか飼主は、草を食う消えた牛そのものになってしまい、責任を回避してるのと牛への愛おしさが重なっての到達。半ば狂った状態に、それまで強固だったカットは、スロー·ブレ·ボケの連続を、イメージつよいままに含んでくる。パゾリーニより、映画としての力はあるかも知れない。男を、離れた病院に運ぶ途中で男は憤死する。
 力強い寓話で映画資産として貴重と言い切れるもの。時代背景が少し前だとしても本質的な社会の後進性、共同体の閉鎖性と構成員の根っこの善良さ、その絡みのグロテスク化進行が、造型されきってる。
 2つのプログラムの間にトークかあったが、世渡り·理論武装·権威とは全く無縁で、影響力からも突き抜けて独自で力ある人間の固有の途を歩み続けた佐藤忠男さんを失った事の大きさを噛み締めた。書く分量が多すぎて乱れた筆遣いもあったが、マイペースを貫き(あからさまな気遣い等と無縁の人で、人当たりはよくなくも、著名海外作家ともかけがえのない親友同士となり、アングラの重臣さんら弟分·後輩らにとっては主義主張を越えて無条件に頼れる、存在だったらしい。奥さんの力も大きいが)、周囲に目配りばかりして、自分を喪失してしまった、生きてる蓮實さんなどが哀れにも思えてきさえもする(接する限り、蓮実さんは外面からいい人だが)。
 1980年代以降、佐藤さんの活動が、アジア·アフリカの映画の紹介·評価にシフトした時は、第一線から退かれた気がして少しガッカリしたが、知られていたライや林に限らず、そこには欧米に劣らぬ優れた才能·これまでの知識では計れない新しい高揚があり、映画を映画としてだけ捉える事の愚かしさを教えられた。サッカーではないが、裾野を考えれば、未だアメリカ映画のトップの方が上位かもしれない。しかし、そこからは新しい展望は生まれない。確かにシーゲルの『殺し屋ネルソン』は誰が観ても大傑作だが、今更そこをほじくり返しても、あまり意味はない。カット=ショットはセル(細胞)であり、完成形においても、決着点ではなく映画の出入り口だ。
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