KnightsofOdessa

プラットフォームのKnightsofOdessaのネタバレレビュー・内容・結末

プラットフォーム(2019年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

[食べかすが降りてくる階級社会の搾取構造] 60点

大きな四角い穴の開いた部屋が縦に幾つも連なる寓話的な空間に、上の階層から順に食事が"プラットフォーム"と呼ばれる巨大な台座に乗って運ばれてくる。三部構成担っている本作品の一部目は、この空間に初めてやって来たゴレンがベテランの老人トリマガシからルール説明を受けるだけだ。一ヶ月ごとに階層が変わる、上階の人間は下階の人間の話を聴かない、下階の人間は下階の人間なので話しかけない、何か一つだけ空間に持ち込みが許可される、一番下(?)まで行ったプラットフォームは一日の終わりとともに最上階まで上がる、プラットフォームが自分のとこにいるとき以外に食品を持っていると部屋が冷蔵庫かオーブンに変化して住人を殺すまで温度が変化し続ける、など。『CUBE』『SAW』などの監禁ホラーと『ハイ・ライズ』『スノーピアサー』などの風刺映画を混ぜ合わせた作品で、『パラサイト』以上に縦構造になった階級社会を直喩で表現している。

『ドン・キホーテ』を読むために自ら空間に入ったゴレンは、明らかに"机の上から動こうとしない"インテリ層を象徴しており、この空間における直接的な階級関係に戸惑いを隠せない。人を事故死させてしまって収監されているというトリマガシに一抹の不安を感じつつ、豊かな食事と快適な空間を前にいつしか忘れ去り、二人は仲良くなっていく。しかし、一ヶ月が過ぎ、レベル171へと送られた二人の関係性は一瞬にして凶暴性に引き裂かれる。そこに至る頃にはプラットフォームの料理は空っぽになっており、上の階からは自殺者が降ってくるし、互いを食べる以外の洗濯しが無くなってしまう。世界の食べ物事情は裕福な人間がたらふく食べ、貧しい人々はそのおこぼれを貰う。それすらさせてもらえない人間は、自殺/殺されて食われる/餓死と死ぬ以外の道はないのだ。これが資本主義の階級社会の成れの果てなのだろうか。

レベル171から辛くも生還したゴレンはレベル33に戻り、イモギリという女性に出会う。すっかり冷笑主義者になったゴレンは、犬を持って入った理想主義者のイモギリを嘲笑う。彼女は説得できそうにない上階を見上げず、下の階の人々に適切な量の料理を食べて、下まで伝言ゲームを届けることを説く。彼女は常に下の人間に気を配るが、自分のテリトリーから出たりすることなく下の人間に委託し、それぞれが自発的に変わるように求めていく。実際に料理が下層の人間まで届いているか知る由もないし、それを見ることも知ることも興味がなさそうだ。彼女もまた全体像を知ることなく、下の階の人間が死んだのを期にやる気をなくす。

第三部ではレベル6にやって来たゴレンの隣に、レベル5へと行きたがる黒人のバハラットが登場する。下の階の他人を向いていたイモギリに対して、上昇志向の権化のような彼は自分にしか目が向いていない。理想主義者、冷笑主義者を経て実践へと目覚めたゴレンは、バハラットを説得して下の階層まで料理を届ける旅を始める。取り敢えず始めた体制への反逆が彼らの間や下の階の人々との摩擦によって時々刻々と変化していくのは実に滑稽だし、結局はイモギリの理論が武装して下に降りていっただけで、上層部の自己満足ぽく響いているのもポイントなんだろう。

これらの縦構造を破壊しているのが、プラットフォームに乗って降りてくるミハルという女性である。彼女は自身の子供を探して階層中を旅しているらしく、一ヶ月に一回必ず登場する。物語上はトリックスターの役割を負っている彼女は邪魔する者を階層に関わらず殺して回るが、本当にイモギリの言う通り"10ヶ月前に自ら入った快楽殺人者"なのだろうか。ゴレンは彼女の気にかけ、彼女もまたゴレンの命を救い続ける。私にはトリマガシがゴレンの未来であるように見え、ミハルは最後に助けた少女であるように思える。そうなれば、彼女に込められたメッセージはどこにも届くことなく永遠のループを重ねていることになり、そこはかとない絶望感が襲ってくる。しかし、そこだけ急にSFぽくなってしまい、なんか違う気もする。

"世界には上にいる者、下にいる者、そして落ちてくる者だけだ"という言葉の通り、上の者は自身の階層を享受し、下の者は自分のことで手一杯、間を繋ぐのは降りる者しかいない。半無限に続く階層構造は搾取の構造を揶揄しているが、結局揶揄するだけに終わってしまったように思える。
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