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花束みたいな恋をしたのnatsuのレビュー・感想・評価

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
3.8
バレンタインデーなことをすっかり忘れて見に行ったら、満席の劇場に、チョコレートの紙袋を片手に持った溢れんばかりのカップル。私の左隣にもいたけれど、観終わって退場の順番待ちをする間、ずっと無言だった。果たして、何を思ったのだろうか。そう考えている側から聞こえてくる、右側の女の子たちの「これ、カップルで見に行くと気まずいよね。なんか、別れたいカップルが見に行くと別れ話の踏ん切りがつくって話題らしいよ」と。ああ、映画って、客席も含めてひとつの作品だ、と久しぶりに思った。

映画そのものは、イヤホンでの例えがすべてをあらわしていると思った。恋愛は、ひとつのものを共有するのではなくて、ひとつとひとつが、同じ時間と空間を重ねる、ということだよな、と。

絹ちゃんと麦くんは、実はお互いを見ているようで全く見ていない。たくさんの偶然が重なって、「自分が良いと思っているものを良いと思っている」人が目の前にぽんとあらわれたことに酔いしれてるいるだけだと思った。自分の好きな沢山のものを、高確率で好きと言っている。好きなものを好きでいてくれることは、暗に自分自身の感性への肯定でもあるわけで。その肯定に溺れた2人は、厳密には「その人」を好きになったわけではなくて、同じものが好き=感性や価値観が同じ、という、ある種の錯覚ともとれる安心感と惰性のもとに、何年も付き合い続けた。

人間の価値観なんて、時が経てばいくらでも変わりうるもの。同じということに運命を感じた2人は、その過程でところどころあらわれる違うことに耐えきれず、すれ違ってしまう。

でも、観覧車のシーンで思ったのは、付き合ってだいぶ序盤の時点での不満とかズレをあとからぽろっとこぼしていて(たとえばミイラ展についての麦くんの本音とか)、なんだ、最初から120%で合っていたわけではなかったんじゃん、と。趣味、という、わかりやすく目に見えるものに埋もれて気付けていなかっただけで、確実に違いやズレは存在していた。その前提がなかったから、違うということに耐えきれなくなってしまったのかな、と。

人間なんて、考え方も、歩く方向も違って当たり前。お互いが別々のイヤホンを持った状態で、「私にはその趣味はわからないけれど、大切に思っているあなたが幸せならよかった」と言えるような恋愛がいちばんいいのかもしれない。

趣味は、その人自身、ではなく、その人の感性や価値観の一部を端的に表象するもの、でしかない、ということを胸に刻もうと思った映画だった。
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