Kuuta

花束みたいな恋をしたのKuutaのネタバレレビュー・内容・結末

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

暗転とモノローグの多さには明確に異を唱えつつ、良い映画でした。私個人の記憶も色々呼び覚まされ、しっかり抉られたわけですが、それは置いておいて①2つのファミレスシーンの素晴らしさ②仮想現実としての東京、について書きたいと思います。

①冒頭から目線が分断されている。「一つのものを見ていると思い込んでいた」間だけ関係が成立していたが、共通の死(風呂場=社会で死ぬ)が2人の違いを鮮明にしていくという話。

告白する最初のファミレスのシーン。iPhoneにピントが合った状態で、正対のショットが切り返される。ここでも彼らは、外部を介してしか繋がっていない。

しかし、絹が告白をオーケーした瞬間、麦側のピントはiPhone から絹の顔に移り、そのまま「現実の」彼女の笑顔を捉えたバストショットに繋がる。この場面の有村架純の表情はとても魅力的だ。

一方の彼女側からの切り返しは残酷。ピントは麦の顔に合わず、iPhoneに固定されたまま。2人のすれ違いは最初から始まっている。

終盤、再びのファミレス。途切れかけた別れ話を繋ぐように、麦が結婚への思いを語り出した瞬間、カメラはテーブルの反対側や下方に移り、不規則な位置からのショットが連続する。最終的に反対側で、もう一つの横顔を捉えながら切り返しが始まっていく。

5年間の関係の変化を感じさせるものの、両者の距離感は異なる(カメラは麦に近く、絹からは遠い)。大きさの合わない切り返しがすれ違いを描いていく。

初々しいカップル(外部)に目が向き、過去を思い出す。本を受け渡す過去の2人が、正対ショットで切り返される。遂に、5年越しで目線が通じ合うものの、現在の関係は修復されない。

2つのファミレスは、カメラの位置関係と、正対ショットによって繋がっている。物語的にも重要な場面だけに、気合いの入り方が違うと感じた。

②今作で目につくのが、部屋の内装や服装に漂うドラマ感、端的に言えばCM的な嘘くささだ(スーパードライ飲み過ぎ)。元も子もないが、菅田将暉と有村架純な訳で、自分の現実と地続きだとは到底思えない。東京の風景は非常に美しく切り取られ、俺たちの憧れる京王線ライフが描かれている。

冒頭で押井守が登場するように、大量のサブカルの要素が映画と我々の現実との楔になっている。新たな名前が登場しては消える虚しさとワクワクの繰り返しが、2人の関係と結びついているようにも見える。

(小ネタに関しては全く拾える気がしないが、最初のカラオケで時間を止めようと歌ったきのこ帝国が解散するなど、単なるフレーズの羅列には留まっていない。というかクロノスタシスもう7年前なのか…)

ガスタンク好きで物流会社に勤める麦は、インフラの大切さを分かっている男だ。対照的に絹はイベント会社に勤める。2人の家系に明確な収入差があるのも思考に影響しているだろう。①で書いたように、彼らは本心では繋がれていない。

ただ、この映画は2人の生き方を対比的に描いているのではないし、麦のような労働を否定しているわけでもないと感じる。むしろ、夢と現実、異なる階層が折り重なるように描いている。

もっとも象徴的なのが、冒頭から不自然に登場するGoogleストリートビューだ。

あの写真は数ヶ月後には消え、新たな光景にアップデートされる運命にある。重層的な都市としての東京。彼らは、今は無いパン屋のパンを手にしている。

あの写真には、2人を含めた東京の過去が詰まっているし、大量の固有名詞を取り込んだドキュメンタリー的な今作の在り方とも、ぴたりと重なる。

しかし、変化する東京を気に留める人はいない。風景は上書きされ、また新しい歴史が堆積していく。

(「街の上で」や「ラストナイトインソーホー」といった今年話題となった作品も、都市に流れてきた歴史をいかに映像化するかについての映画だった)

配信でテレビで見た自分が言うのも申し訳ないが、菅田将暉と有村架純が紛れもないスターであることは、彼らの顔面力、顔のアップの映えっぷりから改めて感じさせられた。

そんな彼らの顔を、Googleはモザイクで塗りつぶす。これによって、この映画は「東京のあらゆるカップルに起こり得た話」として、虚構から現実に着地する。素晴らしい締め方だと思った。
Kuuta

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