Liaozhaipi

花束みたいな恋をしたのLiaozhaipiのネタバレレビュー・内容・結末

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

前半は出会い、中盤は生活、終盤は別れという王道構成だが、中盤とそれ以外の演出のディティールが違い過ぎて全く別の作品を見ているようだった。たしかに、中盤は「すれ違い」を、その他は「シンクロ」をメインに描いているようだが、サブカル用語の押し売り的配置も含めて設定や説明が前面に出過ぎており、登場人物の感情の機微を読み取る楽しさのない、映画というよりレクチャー動画を見ているかのようであった。

内容としては、変らない絹と極端に変わる麦。でもどちらも確固たる哲学がないことに変わりなくて、そのあたりが似た者同士であった。
たとえば、麦は「絹といるため」という動機のみで極端に現実主義に変わっていったわけだが、絹が麦の何を見ていたかという視点は全くなかった。
一方、絹はおそらく幼少期から現実主義への柔い反骨意識のみで自己形成しているから、自分の見たくない方向に変わっていく麦を受け入れられない。
かといって、お互いそこに向き合う勇気もない。
つまり、麦も絹も、相手に自分が見たいものばかり投影していて、現実に生きている二人で関係を作り上げていく格闘がなかったし、肝心なことを話し合わず、誰かのコトバではぐらかし続けていた。

最後も結局、現実主義/理想主義の対立にみえて、やっぱり互いの心から出るコトバではぶつかれない。
「麦君、私のためっていうけど、私の気持ちなんて考えもしてこなかったじゃん!私は好きなものを共有できる麦君が好きだったの!」とか、「絹ちゃん、二人で生活し続けることについて考えてない!オレはオレのこと好きな女と暮らせれば他に何もいらないの!」とかとか互いの醜さを晒せるチャンスだったのに、出てきたコトバが「恋愛感情がなくても~」とか「楽しい記憶のまま~」って。
演出もあるのだろうけど、相手の変化とか心の動きを見て見ぬふりする二人に最後まで乗れないし、そもそも言動の変化が唐突で過程が見えづらいのは、特に麦がずっとそう。

こうして、自分の弱さから目を背けるべく決定的な議論(ケンカ)を避け続けた似た者同士の二人は、互いのキレイな思い出だけ投影し続けること、つまり見たくない自分にふたをすることに暗黙の同意をし、共犯関係のまま何となく別れていく。

一応、ファミレスの涙が、“失った”じゃなくて“進んできたんだ”っていう前向きな布石ならまだ救いはあるけど、あのラストじゃただ次に行ったってだけでお互いが何か教訓を得たような感じは読み取れなかったから、いらないシーンだったかな。
そういう中身や後腐れの無さこそが「花束」じゃ!って言いたいならいいけど、なんかそうとも擁護できないほど登場人物の言動の根拠に説得力がない演出が続くと、設定に乗ることしかできないから、どうしても作品としての評価は下がらざるを得ない。中盤はいろいろ他作品の古典的な内容を踏まえているように見えたから、そこでなんとか。
ブルーバレンタイン基準に考えてこれ書いているからかもしれないけど。
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