はちわる

カモン カモンのはちわるのネタバレレビュー・内容・結末

カモン カモン(2021年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

子どものころ、何を言っても「子どもの意見」になることに違和感を感じていた。周りの大人たちの人間として向き合わない不誠実さにイラつきながら、諦めていた。それと同時に、自分の意見が「子どもの意見」としてブーストされる強みみたいなものも感じていて、それを敢えて利用する嫌な奴だったと思う。

子どもにインタビューをするという行為は「子どもの意見」が欲しいから行うものだろう。それはまるっきり、自分が子どものころに感じていた不誠実な大人の態度の結晶のような行為だと感じた。
インタビューに答えていた子どもたちの中にもその不誠実さを感じながらも、敢えて「子どもの意見」を言っていた子はいるんじゃないかと思う。社会や親の態度によって「子ども」という役を与えられ、作為的に大人のやってほしい子どもを演じきるしかない子どもたち。それは聞き分けを良くするみたいなことではなくて、子どもの振る舞いを子どもとしてやるということだ。たとえば、音の出る歯ブラシを欲しがったり。

そしていずれ年齢を重ねると、いつしか「大人」という役をやらなくてはいけなくなっていく。若輩者を導いていく役。その役の中でも一番の大役は「親」だろう。一番子どもに近くありながらも、社会に与えられた型に一番はまりながらこなさなくてはいけない役だ。

では、大人と子ども、親と子どもという枠を取り払って、一人の人間として向き合い、役割の外で分かりあえるよう努めることが正しいのではないのか。子ども扱いしないという誠実さ。子どものころ、大人たちに求めていたものだ。
ところが、これは大人になってわかったことだけれど、枠を取り除くことは不可能だ。なぜかというと、人と人が対話をする時には、必ずロールプレイが発生するからだ。だから皆、決められた役割の中で言えることを言うことしかできない。

母への接し方をジョニーとヴィヴで比べると、ジョニーのほうが(意識せずとも)ロールプレイをやるしかないことへの諦めがあるように思った。勿論「介護する娘」という役割のしんどさからは誰もが降りたいだろうし、ああいった態度になるのも当然なのだけれど、それでもヴィヴはロールの放棄を諦めていないからこそ、一人の人間として向き合えると信じている人間だと思う。だからこそ、中絶の話もジェシーにしてしまったのだろう。ただ、それを聞かされたジョニーが何も言えないのは当然で、暗黙的に決まっている「大人」の役割(あるいは責任ともいえるかもしれない)を逸脱してしまっているからだ。それに、「大人」の役割から逸脱したことで「母」「子」というロールから逃れられるかというと「放棄した母」「放棄された子」というロールに移行するだけで、ロールプレイが発生することは避けられないだろう。ジェシーが親のいない子を演じてしまうのは「母」という役割を度々放棄しようとされてきたからだと思う。不和を感じながらでも、結局は発生してしまう役割のなかでしんどさを感じながらやっていくしかない。

では子どもに対して役割を捨てて一番向き合うことができるのは「関係のない大人」になるのだろうか。「大人」「子ども」という最低限のロールが残るけれど、最も人と人として向き合える関係ではないだろうか。
ところがそれでも、「大丈夫」「大丈夫じゃない」のシーンでは、ジョニーとジェシーはお互いにその関係性のなかで言わされていると感じた。
本当は大丈夫だし、本当は大丈夫じゃない。
だけどジョニーだから、ジェシーだから。大人と子どもという枠を取っ払って話している「テイ」だから。あのタイミングではそれを言うしかなかったんじゃないだろうかと思う。

人と人として向き合うことができないからこそ、ロールプレイを演じきるしか生きていく以上ないからこそ、ジョニーはそのままの仕事を続けたのだと思う。

複合的な関係性の中で生きていくのが人生だ。誰もが孤独ではないようで孤独だ。色のないモノクロームのペラペラの日々とて。先へ、先へ、先へ。記録を遺して生きていこう。
はちわる

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