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三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のいのレビュー・感想・評価

5.0
右翼・左翼にとどまらない自分とは何かの圧倒的討論

三島由紀夫と東大全共闘の討論をドキュメンタリー方式で復刻したもの。三島由紀夫と東大全共闘の精神がぶつかり合う闘争は、終始血沸き肉踊るものだった。
最初司会の木村修が他者とは何か、という話を振ったのをきっかけに話は実存主義に始まる。三島は他者を想定しないサルトルからは、エロティスティックな美を得ることができないとして、他者とは何かについて論を進めていく。
そしてここで登場するのが、赤子を背負った論客・芥正彦である。芥によって存在の無効性、物自体、永遠なる解放区まで話は進展していき、革命とは何か、行動とは何か、という根源的な問題の哲学的議論に入るのであった。この芥の話が本当に素晴らしくて、これほどの天才が世の中にいるのか、と問いたくなる。自らというものをここまで分析し、演劇によって行動し、世界を作っていく姿は本当に感動した。そして、この場に生命の象徴、永遠を覗くものである赤子がいたのも何か感じさせるものがあった。
芥が、無国籍的・アプリオリな自我というものを想定して、論理より行動の重要性を説いたのに対し、三島は「自分は日本人である自分から逃れられなくても良い。ショーウィンドウを覗いて自分がどうしようもなく日本人であることに気づく瞬間がある」という切り返しを行った。これは単なる断念ではなく、むしろ構造主義的な反論で、見事な返しである。そして三島の思考と行動はここから始まるものなのだろう。
一方で、三島はこの段階で、論理を信頼しきることなしに行動を起こし、正していく姿は尊敬に値すると述べている。三島はこの全共闘と自らを分かつのは唯一「天皇」のみとしたのである。天皇とは、天皇親政と直接民主制と差が生じないような概念であり、すなわち一切の非合理を引き受ける国民統合の象徴といえる。三島はこの天皇というものに、一切を託し、あいまいで卑猥な日本というものを立て直そうとしていたのではないだろうか。
では天皇という言葉にこだわる必要がないではないか、という質問には「意地である」と返す。また、天皇という言葉が出たのだから共闘してくれ、という提案には、天皇という言葉が言霊で、それによって全共闘が振動してくれればよい、という返しを行っていた。ここがこの討論の1番素晴らしいところだろう。ただ自らの立場を戦うのではなくて、「天皇」という言霊によって全共闘と自らの論、そして解放区というアプリオリな世界と現実世界、永遠性と有限性を弁証法的に統合しているのである。このような天才的な返しは三島由紀夫しか不可能なことで、まさにこの一言によってこの討論は歴史的なものになったのだと思う。本当に素晴らしいの一言。
あと、解説者としては内田樹が1番理解していた。彼は護憲・天皇制擁護の立場で親近感を湧いていたが、三島の思想を完璧に言語化することができていたと思う。
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