麟チャウダー

レリック ー遺物ーの麟チャウダーのレビュー・感想・評価

レリック ー遺物ー(2020年製作の映画)
3.5
認知症版「インセプション」みたいな映画。

スッキリ解き明かしてくれない、分かりやすく説明してくれないので不可解なままという部分が多い。けど、まぁまぁ面白い。
アンソニー・ホプキンス主演の「ファーザー」を観ておくと面白いかも。あれとはまた違った認知症体験ができる。こっちはホラーの皮を被ってるから表現方法が独特だった。

分からない、分かり切らないことが真の怖さなんだろうと思う。認知症とは、きっと正解が無くなること、確実なものが無くなることなんだろうなと思う。
正解や確実性、現実感が消えて、曖昧さ、不確かさ、不可解さの中で生きていくことが認知症というものなんだろうな、という恐ろしい映画だった。なのに、その表現が面白くて、訳の分からなさを考えるのも楽しい映画だった。映像も綺麗で良かった。

爆裂に私情を挟むなら本当は☆4.0くらい点数つけたい。それくらい良かった。
ただ☆4.0の重みに耐えられるだけの強度がこの映画にはないかな。☆4.0は荷が重いかな。



自分が渡したのに盗まれたと思ったり、自分が招き入れたのに侵入されたと思ったり。家族の名前を間違えたり、自分の娘と孫が偽物だと感じたり、認知症のジャブで軽く肩慣らししてくる。ていうか、1時間くらいずっとジャブ打ってる。

でもそこから、独特な認知症体験をさせてくる。認知症の感覚を逆で体感したような気もする。ような気もする、という違和感とかもまた一つの表現だと思う。

家の間取りを把握させてくれない撮り方が凄く良かった。家の移動経路をあまり映さなかったり、部屋の中を主に映したり、意図的に偏った情報で家の内部を描く。
話が進むにつれて、まだ見てない部屋だったり、その角度から見るのは初めてという視点だったり、あれ?そんな部屋あった?、という映し方をしてくる。
そのせいで、家の間取りがどんどん広がっていくような錯覚をする。
この感覚にさせる手法が上手かった。急に全く別の空間に感じさせるのではなくて、知っていたはずの空間が徐々に広がっていく感覚。自分の外側の絶対的な空間が徐々に変化していくことで、自分の内部が徐々に疑わしくなっていく感覚が認知症体験の表現として独特で凄かった。

小さな違和感から、小さな変化になっていって、気付いたらもう戻れないという陥り方。頭は正気なんだけど、空間が発狂している感覚。こうして正常なはずの状態の人物視点で、認知症の主観的体験をしていく展開になる。



主人公(孫のサム)が、2階から階段を降りていくシーン。少し凝った撮り方で、主人公が階段を回って降りていくのと、カメラの回転をあえて逆にすることで時間が長く感じた。階段を降りる時間が長く伸びたような感覚。
階段もカット割を区切って、降りてる映像を瞬間的に繰り返しているように見えた。だから長く感じたし、2周しているようにも見えた。
絶対的な空間や時間というものを、引き伸ばされたような錯覚をした。この表現が本当に細かいんだけれど、所々にあってこれが面白かった。
認知症の信じていたものが揺らぐ感覚は「ファーザー」でも感じられるけど、あっちの基本設定は、空間は固定されていて、時間も固定はされているけど繰り返される、っていうような感覚だった。
そのあたりの表現方法の違いが比較してみると面白い。いや、認知症を面白がってはいけないんだけど、そう思ってしまうくらいに映画として楽しめた。




主に物語として、設定や説明や展開に関わる人以外は顔や姿を映さなかったり、家の外に出掛ける場面では背景をピンボケさせたりする。
意図的に、視野を狭められる。家、森や木々、車、しかほぼ映さない。それ以外を見させてくれない。この撮り方が、自分の視点が他者に操作されてる感覚なんじゃないかな。映画的な手法っていうのが直接、妄想や思い込みの症状を表現していると思う。

世界から切り離されて、視野を狭められて、視点を偏らせて、映したくないものは映さない、そこにないものをあるかのように加えたり、あるものをないように思い込ませたり、不可解なもので混乱させたり。作品全体を大きく何かの意図で覆われているような気がしてくる。
これが全体的に、外部からの意図によって揺るがされている不安感のようなものに繋がるんだと思う。妄想や幻覚、幻聴という症状によって、自己が揺らぐ感覚なんだと思う。
物凄く漠然とした、外部からの介入というような錯覚。抽象化された、現実という確実性の揺らぎみたいなことだと思う。
自分が自分のものじゃなくなる感覚、他者や大きな何かの“意図”に影響を受けてると思う感覚なんだと思う。

そこにいない誰かに話している、とか、自分の娘や孫を誰かがなりすました偽物のように思う、とかも映画の語り口として主人公たちは本物ですよ、と設定されているだけで主人公たちの確実性は分からない、ていうのもあると思う。雑な言い方をすれば夢オチ、的なこと。
極論を言ってしまえば、認知症における症状の全てを抽象化して、ある程度に強固な記憶の上に高度に再構築した架空の現実に翻弄されている、と言い捨てることもできなくもないかと。つまり、ただの妄想でしたオチ。
そうであることも一つの認知症の症状だし、そうでない場合も認知症の症状だし、そうである部分と違う部分が混在していることもまた症状だし、と曖昧さや不確かさ、不可解さをも正解とも言えてしまうことそのもの、その全てが認知症の怖さです、という結論なのかな?

祖母の知り得る範囲、想像できる範囲内の情報で構築された物語だから、母も孫も妄想という見え方もする。
認知症たる何か、認知症たる所以の存在が脚本家で、そいつが書くその物語という妄想を現実だと思い込む。映画として映している部分が現実ですよ、という思わせ方すらも認知症の症状かもしれない。
この映画そのものが、祖母の脳内映像で、実際にある祖母が属する現実はここでは描かれていないのかも。母の体験も、孫の体験も、妄想によって作られた想像上の母、孫と祖母である自身の境界線が曖昧になっているとか。
部分的に見たら認知症の体験だし、全体的に見ても認知症の体験ということかもしれない。



最後がよく分からない。最後に限ったことじゃないけど分からないことが多くて、特に最後が上手く言葉にできない。

最後は認知症に取り込まれて曽祖父と同じ運命を辿る祖母の最後の願望なのかも。側に娘がいてほしいという。その祖母と母の2人の姿、その後ろで孫である主人公は認知症という遺物の継承を目撃する?
ここで主人公がカメラのこちら側を見ている、観客と目が合う。そして、自分の母が祖母と同じ呪いにかかってることを気付く。どういうことなんだろうか。
目の前の祖母と母の姿、それが今度は一つ下の世代である主人公と母の身に起こることを悟って終わる、のかもしれない…。

読みにくくてすみません…(意識朦朧としながら)。
この映画について考えることで迷い込む迷路、それが認知症っ!(思考が迷子)。
結論、もう、分からないっ!(ここで匙を投げる)。
分からない、が分かる映画っ!(投げやり)。
麟チャウダー

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