毱

逃げた女の毱のネタバレレビュー・内容・結末

逃げた女(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

2021/06/15
2022/05/07(再見)

『逃げた女』というタイトルからも明らか(?)なように、本作は「女性」たちの映画。男性が登場しないわけではないものの、女性同士の会話がほぼ対等に横顔が捉えられている一方で、男女の会話となると男性の顔はほぼ映し出されることがない。男性(たち)の表情が捉えられるのは、ごくわずかな時間のみで、しかもそれは女性と共に映し出されていない。男ひとりがただ残されたときのみ、わたしたち観客は彼らの顔を見ることができる(防犯カメラの映像が映し出されているモニターも然り)。

こういった男女の徹底的な(?)対比が男性中心主義からの離脱であることは、おそらく間違いではないと思う。
『はちどり』の監督であるキム・ボラは、『はちどり』における主人公の母親が、主人公である娘からの呼びかけに答えないといった描写について、母親である前にひとりの女性だ、といったことを語っていたような気がする(うろ覚え)が、この映画における女性たちも、同様のことが言えるのではないか?

キムミニ演じるーーは、夫と離れるのは結婚してから今回が初めてだ、とどこでも話しているが、この映画で捉えられているのは、妻としてではなく、「後輩」「ライバル(?)」あるいは「元恋人(?)」としての一面だ。夫と離れている間に出会う人々の前でみせる一面は、それぞれ(当たり前のことながら)異なっている。最初の先輩とその同居人の家では、差し出してもらったコーヒーを飲むが、2軒目の先輩宅ではコーヒーは飲まない。この映画でわたしたちは、女性たちの「横顔」をただひたすら見ることになるが、それは「一つの顔」に過ぎないのだろう。対する人によって、「言葉」あるいは「行為」は変奏してゆく。では、そのなかでひたすら反復される夫との関係性とは、何を示すのか? 再会し、対話し、次の場所でまた人と出会う反復のプロセスのなかで、変わらないこれこそが、もしかしたら誰にも見せたくない「虚栄」で飾られたものーー演じられた、武装されたものでもあるのだろう。描かれることのない夫との関係が、実際どうであるかはさておき、うそ、それから、本当が拮抗し、分かち難く結びつく……ホンサンス映画の魅力に満ちた作品だ。

2023/01/28
カゴのなかの鶏。
自由に動き回る猫。

ふたたび劇場に戻り、パンで映し出されるスクリーンには、(『夜の浜辺で〜』を彷彿とさせる?)海辺の風景。画面いっぱいに捉えられた、そのショットのまま、スクリーンの映画=この映画のクレジット。最後の音楽(「平和な映画ね」と主人公が称する映画内(?)映画)

コーヒーを飲むと負担になる、という女(キムミニ)ふたたび。
毱