本を読むたぬ

粛清裁判の本を読むたぬのネタバレレビュー・内容・結末

粛清裁判(2018年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

前半、おそらく2,3人分の弁論(15分くらいかな?)のあたりは意識が朦朧としてしまったけど、そのあとは集中して観られた!昨日の『国葬』よりは状況にストーリー性というかちゃんと進行してる様子を感じ取れたからかな?いずれにせよ、昨日の『国葬』よりもちゃんと映画を楽しめてよかった。

わからないことだらけという意味で非常に刺激的だった。短い紹介文からでっち上げられた裁判ということだけは知っていたけど、何がでっち上げられているのかはわからないまま干渉した。ソ連で科学者が逮捕され裁かれるという状況からランダウのことを考えながら観ていた。終演後に調べてみたら産業党裁判が行われたのは1930年末に対し、ランダウ大先生が同僚と一緒に逮捕されたのは1938年春。最後に表示された字幕によれば前者については産業党という組織自体がでっち上げだったのに対し、ランダウ大先生の方はしっかり政権批判をして捕まってるので全く異なる性質の事件と言える。

作品に話を戻すと、この裁判が1930年のソ連にとってどんな意味を持ち、またなぜ必要だったのかという疑問がまず思い浮かぶ。国内に連帯感を生むためなのか、国民に国外の脅威を意識させることなのか、国民にプロレタリアとしての自覚を刻みソ連の外にいるブルジョワたちへの敵対心を煽るためなのか、資本主義に対する社会主義への優越をアピールするためなのか…

各人の弁論のシーンの間に挟まれる、被告人たちの銃殺を求める夜間の運動?についてももっと説明してほしくなった。

裁判の様子もわからないことが多かった。被告たちの弁論は口説くて何を言いたいのかよくわからないものが多かった。被告も検事も客観的事実とソ連への心情をごちゃ混ぜにして話すし、検事が銃殺刑を求めた直後に傍聴人が歓声を上げ、さらに裁判長がそれを全く静めようとしないあたり、現代的な裁判とはかけ離れてた。むしろパフォーマンス性を強く感じた。ただこの点については20世紀初頭のヨーロッパないしソ連における通常の裁判の様子がわからないとなんとも言えない。主観的な弁論が当たり前だった可能性もある。

最後の説明で銃殺刑を言い渡された4,5人の被告が懲役?10年に減刑されその間秘密警察管内の研究所にいたことについて。なぜ1人だけそのまま銃殺されたのか?なぜ「かっこよく」被告全員の銃殺刑を求めヒーローさながらの様子で給水してた検事がその後受刑(罪状は忘れちゃった)するような事態になったのか?

そもそもでっち上げ裁判で有罪判決を食らった科学者たちは当時のソ連においてどのような立場だったのか?政権と何か取引ができる程度には権利が確保されていたのか?「群衆」にとっての事実・真実(ここではしっかりと区別しない)とはなんであったのか?裁判に誰かが疑問を呈することはなかったのか?(誰にもできない状況だったのであればそこまでだけど。)

被告の多くが関わっていたモスクワ科学アカデミーについて。物理学の指導教官が以前、モスクワ科学アカデミー(あるいはそこに属していたユダヤ系科学者たち)はソ連体制下にとって非常に厳しい状況に置かれていたと話してた。
あのランダウでさえ、当時の物理界ではおそらく世界一の名声を持っていたかつての指導教官ニールス・ボーアをはじめとする科学者たちがソ連に抗議しなければ釈放を待たずに…ということもあったかもしれない。

ソ連についてはあまりにも無知であることに気がつけた点で非常に有意義な映画鑑賞だった。今日浮かんだ疑問を調べるのはかなり楽しそう。日本では市川浩先生あたりかな?