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ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれからのdalichokoのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

ベターハーフの意味もサルトルの「出口なし」もまるで知らなかった。失礼な言い方だが、アメリカの片田舎にこんな知的でセンスのある世界が存在することに衝撃を感じる。『レディ・バード』のほうがまだ都会なのだろう。

さてこの映画の三角関係の新しさは、ある人物を代理する、というところから始まる。そして互いの存在に性別を超越した恋愛感情が生まれるまでを巧みに、あるいはサスペンスフルに描いているのが面白い。

何より、この映画を包みこむ”映画ファン”をどきどきさせる展開が万遍なく広がっているのがいい。いくつかの素晴らしいシーンが印象的だが、まず主人公のエリーの丸メガネに映し出される『ベルリン天使の詩』のシーンがとても美しい。ヴィム・ベンダースの最高傑作。ここで神の存在が示される。この映画は教会を舞台に神の存在について衝突するシーンがあるが、映画の最初のほうでヴィム・ベンダースが提示する”神”を見せるのだ。これはつまり「神様も恋をする。」という矛盾である。対して主人公のエリーは神を信じていない。このことがこの映画の展開に大きく作用するのだ。

他にもカズオ・イスグロ原作の『日の名残り』や『カサブランカ』、チャップリンの『街の灯』(この映画のセリフが最後に・・・)、そしれキャサリン・ヘプバーンの『フィラデルフィア物語』など、エリーの中国人の父親が家のテレビで見る映画の向こうに、この映画の様々な仕掛けが施されている。これが実に面白いのだ。

まだある。

エリーが代筆を頼まれた男友達のポールとピンポンをするシーンは『アバウト・タイム ~愛おしい時間について~ 』、最後の教会で三人が激論するシーンは『卒業』だ。そしてエリーが列車に乗って去るのを必死にポールが追いかけるシーンはキャサリン・ヘプバーンの『旅情』だし、列車が去った後の線路は『スタンド・バイ・ミー』ではないか!!そしてそして、エリーとアスターが人里離れた露天温泉のような渓谷で水面に浮いている美しいシーンがある。これは見かたによっては『地獄の黙示録』のカーツとウィラード。二人は表裏一体の関係であることを暗示する。この映画の数ある美しいシーンのひとつである。

最後に教会でポールが好きだったアスターにエリーが代筆していたことがばれるシーン。アスターが手紙やメールを送ったのがエリーだと気づいたとき”You?”という。「あなただったのね。」これはまさにチャップリンの『街の灯』のラスト。あの盲目の少女が浮浪者のチャップリンの手を握って、自分を助けれくれた人がこの人だと気づくシーンである。まさに恋は盲目。

アスターが疑いを感じてエリーとポールに別々に神の存在を聞いて、真実に行き着くとき、この三人のアイデンティティはまさにベターハーフとなる。それぞれの存在を認識することでひとつの人間になる。サルトルの実存主義を見事に展開したことになる。

子供が主人公でありながら、なんという大人の映画。なんという恋愛の苦しさ。盲目であることで何も見えない状態と、代筆という第三者的な立場だから見える現実。誰かを好きになる瞬間(ひとめぼれ)の原理は、その相手がもともと自分の分身であることが記憶を呼び起こすという真理に吸い寄せられる。

世間はフェイクニュースやSNSがはびこり、メディアを支配し操作する者が長く政権に居座るような現実を見せつけられる毎日で、この映画は何かを主張することで真実に近づこうとする青春群像を映し出す。エリーとアスターが道路の両側で対峙するシーン。黄色いセンターラインがずっと向こうまで伸びていて、画面の左右でお互いの主張が衝突する。そして最後にエリーが自転車で去ろうとするとき、アスターのもとに戻り熱いキスをする。この感動的なシーン。この美しさは女性監督ならではだろう。

青春映画をあたかも単純い描いたように見せて、この映画には深い洞察力がある。それは未来を予感させるものであり歴史を礎としたものでもある。この玄人好みする世界を味わえたことは幸運だ。
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