ヤマダタケシ

ビューティフル ドリーマーのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

1.0

このレビューはネタバレを含みます

2020年11月6日 シネリーブルで

【そもそも1984年のアニメを観てないと意味が分からない】
 そもそも今作、一本の作品として成立していないところが問題だと思う。というのもこの映画は基本的に『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』という作品の内容を知らないと全くその面白さが分からないからだ(分かったところで面白いかはまた別の問題)。

【映画についての映画】
 今作、やろうとした事としては物凄く映画的、というか映画について自己言及的な事だったと思う。『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』という〝こんな幸せな今がずっと続いて欲しい〟と思った少女の願いがそのまま同じ日を何度も繰り返させる話は、ある意味同じ1時間半から2時間強くらいの時間を何度も繰り返す映画というメディアと似ている。
 そして今作の、その作品が未完成の形でそこにあり、その脚本を元に実写映画を撮って行くというメタ的な構造によって、ひとりの少女の夢として存在していた『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』と〝映画〟は近くなる。
 つまり、学園祭初日という結末を望まずその過程に留まろうとするビューティフルドリーマーとエンディングを拒否した映画という作中のモチーフは一致するのだ。
 そして、そのエンディングを拒否した映画を作って行く、その過程で作品の感情(こんな時間がずっと続いて欲しい)ってのと実際の役者やスタッフの感情がシンクロしていくことによって、ある意味主人公達は『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』という作品自体に吸い込まれていくのだ(大林宣彦っぽい)。
 つまり、今作は『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を実写で改めて作る人々についての話を語る事で、終わりを拒否した夢についての映画を撮る過程自体が、終わって欲しく無いひとつの夢=エンディングを拒否した映画になっていくということがしたかったのだと思う。それは映画についての映画だし、結末が無くてもただ愛しい時間がダラダラと続けばそれでいいという、ある種映画というもののあり方についての挑戦のようなものだったと思う。
 これ自体はやりようによってはスゴイ面白かったと思う。

【ただの『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』ごっこ】
 ただその作中で語られる〝制作の過程自体にきらめきを感じさせる瞬間や時間〟というのに説得力があったかというと、これが驚くほど無かった。
 この二重なビューティフルドリーマーを成立させるためには、観客から観たこの作中で行われる映画撮影という青春自体を物凄く魅力的に見せる必要があり、そのためにはその撮影というシーンの瞬間瞬間の生のかけがえの無さやそれに対する愛しさの連続によってそれを紡いで行かなければならないのだ。
 かつ今作はかなりフィクション度の高い(『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』と同じ脚本で実写映画を撮るって言って、それがアニメと同じ構図の同じキャラ設定のまま作られるのは不自然だと思う)劇中劇が加わるため、普段の撮影パート自体の演技や撮り方とそこにギャップが必要であると思う。
 今作は作中の現実におけるパートに多少のドキュメンタリックな雰囲気が必要だった。だからこそ今作は現場での口頭の打ち合わせによる手法で作られたのだと思う。
 しかし、それはただただシーン単位での悪フザケが続くだけになっていて、そこでの人同士の距離感の生っぽさには繋がっていなかった。撮影現場という閉じた異常な空間の中で人間関係の濃度が濃くなっていくような、ある種ドキュメンタリーのような魅力、その積み重なりが有るからこその、その時間の愛しさに対する説得力は無かった。
 代わりに今作のほぼほぼを締めるのは『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の構図をそのまま実写にしたシーンのオンパレードである。これが現実パート、劇中劇パート問わず両方に挿入される。
 本来これは、現実パートのドキュメンタリーにも近いリアリティがあってはじめて成立するものである。つまりその間に入る虚構度の高い劇中劇の演出とそれが区別されたところからはじまり、段々とその演出が現実パートに入り込んでくるから成立するものなのである。
 だが、そもそも真剣に映画を完成させようとしてるやつの作ってる映画がまんまアニメの構図の完コピ(しかし作中の現実では主人公自身の演出)というふざけたものであるという点で、今作の現実パートのドラマのリアリティは崩壊している。
 つまり『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』におけるギャグ漫画のキャラクターの学園祭に対する姿勢と、現実の人物が行う映画制作への姿勢は同じに描いてはいけないのだ。
 学園祭では無く、映画制作である時点で、その過程に愛しさを覚えさせるためにはある程度それに取り組む姿勢に真剣さが無いとダメなのだ。
 今作の現実ドラマのパートで行われたカメラを使った『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』ごっこでは、そこに対する真剣さも、ひいてはその過程の愛しさも感じられず、撮影過程の青春というドラマにも魂は入っていなかった。
 結果としてそこに残ったのはサムいビューティフルドリーマーごっこだけだった。

・今作がやろうとした事が〝ある種現実と距離がある閉じた関係性の物語を、映画制作という閉じた空間の中で行う時、物語と映画制作自体が混じって行く〟〝その過程で演者やスタッフたちも映画の中に呑み込まれてしまう〟という事であったなら、それを上手くやった映画が高橋伴明の『光の雨』だったように思う。
 ①あさま山荘を演じる若者やスタッフたちが段々とあさま山荘にシンクロしていく
 ②当時学生運動をしていた監督は途中で消えてしまう(映画に呑み込まれる)
 ③物語として距離をとることができた若者たちが〝ちゃんと完結する物語〟としてそれを終わらせ、そのあとの現実を生きる。
・『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』という元の作品においては、それぞれのキャラクターの関係性というのがTVシリーズによって補完されているから成立したというのもあったと思う。
・今作の企画の前提として『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の存在感がデカデカとあった上での話だと思う。もちろんビューティフルドリーマーが後のあらゆるエンタメ作品に与えた影響は大きいと思うが、なんかこんなクラシック然として扱われるのは何か違うよなって感じがする
・映像研見習え。映像研の地獄版みたいな感じだ
・やたら映画のタイトルを連呼する映研部員の会話がキツく、特に中打ち上げのシーンはともすれば地獄だった。しかし、ここには自戒の意味もある。
・モリタのミスとその謝罪・逆ギレ?のギャグが、ちゃんと撮影の話として見ると笑えない。