ヤマダタケシ

ヤンヤン 夏の想い出のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

ヤンヤン 夏の想い出(2000年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

2024年5月 早稲田松竹が満席で見られなかったので自宅でVHS。
・やはり『トウキョウソナタ』を思い出してしまう(あと、岸辺のアルバムとか)。
└別にトウキョウソナタに限らないのかもしれないが、いわゆる家族がバラバラになっていく作品は沢山あると思う。

・しかし、今作がその中でも印象的なのがバラバラになっていく家族それぞれのエピソードをある種対比的に描いたり、何かひとつのモチーフを強調するような構造的な部分があるからだと思う。

・まず、初恋というのが今作の大きなモチーフのひとつだったように思う。
└今作家族それぞれが、それぞれ直面するエピソードが描かれていくが、父・NJのエピソードを構成するひとつの大きな要素として初恋の相手との再会がある。
→義理の弟の結婚式で、偶然初恋の相手と再会したNJは、そこでもう一度初恋の相手と向き合い、もしかしたら有りえたかもしれないもう一つの生活、初恋の相手から逃げずに一緒に暮らす可能性を想像する。
→しかし、初恋の相手と過ごすうちに、それが未だに続いてしまっているからこそのツラさが浮かび上がる。初恋の相手は、なぜNJがあの時逃げたのか?を問い続け、時間が経ってもその怒りをぶつけてしまう自分=あの頃の自分に戻ってしまうことに苦悩する。
 初恋の相手は、今の生活を捨てNJとの、本来あるはずだった生活に戻ることを望むが、NJはその彼女を見ながらどうしてもためらってしまう。印象的だったのが、ゆっくり閉まる初恋の相手の扉。NJからの一言を待ちながら扉は閉まって行くが、NJはそこに声をかけることができない。
└そしてそこに、まず、今まさに初恋を迎えたヤンヤンの姿が重なって行く。NJの「君に惚れていたのは高校のもっと前から」というエピソードはそのまま今のヤンヤンを、まさにその頃のNJと重なるように見せて行く(ヤンヤンが恋におちる瞬間の、好きになる女の子の後ろにプロジェクター越しの雷が落ちるところ、ベタ)。
→それはヤンヤンの、後ろ姿を撮りつづける写真のモチーフとさらに重なる。NJにとってヤンヤンは、まさに自分が振り返る過去として存在している。しかし、その振り返られるヤンヤンは、本人が見えていないもう一つの真実として、そのNJたち大人の背中を写真に収めている。それはヤンヤンにとって、そのNJの背中が理解できないものである、というのと同時に、NJが分からない〝もうひとつの真実〟をヤンヤンは見ているという事にもある(このヤンヤンの視点がこの映画の希望になっているように思う)。
→この映画のもうひとつ重要なモチーフに、意識を失った祖母というのがいる。祖母の意識を繋ぎ止めるため、家族のそれぞれは彼女に話しかけ、それがある意味この映画において登場人物が本心を語るような役割にもなっているのだが、自分の経験や見て来た事、悩みを語る登場人物たちに対し、ヤンヤンは何も語らない。それはヤンヤンにとっておばあちゃんは自分が話さなくても、自分が話そうと思った事を知っていると思ったから。
→しかし、そう思うと、ヤンヤンをある種大人たちが経験してきた過去として描きつつ、大人たちも実はヤンヤンが何を経験したか、これから何を経験していくか知らない=だから話す必要がある、というところにこの映画の希望があったように思う。

・思うとこの映画は一見するとこれからそれを経験する子供達と、それをすでに経験した結果どつぼにハマってしまっている大人たちを描く。つまり子供と大人は、いつかやがてそうなるモノとして描いている様にも見える。
└特にティンティンの友人と、その母親の姿は恋人に依存、そこに救いを求めすぎた結果、同じように身を持ち崩してしまうように描かれていた。
→その構造は、結婚式ではじまり、葬式で終わる事、四季の変化を描く事でより強固にされていた。
→しかしヤンヤンの視点が描かれることで、その子供・親がやがて同じになってしまうような構造を否定しているようにも見えた。


・父親パートの、仕事での信頼のエピソード。会社の正しいと個人の倫理観の間で苦悩する姿は『岸辺のアルバム』を思い出した。
・家族の構成員がそれぞれ個別で対峙する悩み、結婚式ではじまり葬式で終わる事などホーホケキョとなりの山田君的である。