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水俣曼荼羅の大大のレビュー・感想・評価

水俣曼荼羅(2020年製作の映画)
4.2
6時間の長さから身を悶える観客の行為そのものが、水俣病患者の戦いに加勢することになるという、参加型体験ドキュメンタリー。


<あらすじ>

最高裁で、行政に水俣病患者の救済措置を命じる判決が出る。

その判決が出るに至ったのには、2人の学者が大きく関わっていた。

1952年に定められた、患者認定の可否を判定する基準には、末梢神経自体の異常があることが必須条件であった。

しかし、末梢神経の異常がない患者が多かったことから、手足の麻痺があっても救済を受けられない多くの患者が数十年にもわたり存在することとなる。

そこで学者2名が、有機水銀による脳への異常が起きているため、末梢神経自体に異常がなくても、手足の麻痺は起こりうるとして、52年の審査基準自体が誤りである科学的根拠を示したのだった。

革新的な自身の仮説を証明するために奔走する学者は、水俣病患者の脳解剖を試みるが、その機会を掴めずにいた。



以下ネタバレ気味



言語障害や手足の震えなど、傍目から見てわかりやすい症状を抱える男性患者は、健常者女性との馴れ初めを語る。

仲人のインタビューで、
親が韓国籍である理由から、見合いが捗らなかったなかでの縁談だったことが示唆される。
そして、男性の防空壕でのホームレス同様の過酷な生活の中で、動物たちの異変を境に、男性もまた水俣病にかかったのだった。

魚介類を三食食べることが当たり前だったほどの水俣の海との暮らしの営みは、公害によりがらっと姿を変えてしまった。

水銀で汚染されたヘドロは海岸沿いに埋め立てられるが、海との境界で隔てているプレートは老朽化が進んでいる。

裁判で勝訴を収めても、未だに患者認定をしない、認定しても補償金自体を支払わないなどケースが相次ぎ、再び裁判を起こすという、患者と行政のいたちごっこが繰り返されていた。

重い水俣病症状を抱える女性は、周辺の男性に次々と恋に落ちては、失恋を繰り返していた。
その女性の人生を綴った詩で作られた楽曲が水俣に音楽祭で受賞をする。

その詩には当初、「支援者が私をこのようにした」といったストレートな言葉も含まれていた。
そこには、被害者としてではなく、ごく普通の自立した生活を送りたいという切実な想いが込められていた。

患者の高齢化が進む中、最終的な被害者救済を掲げた、200万程度の補償金と、手帳交付を約束する代わりに、以後訴訟をしないことを約束させる特措法が施行され、大部分の患者はこの和解案に賛成する。

それでもなお、納得がいく決着を望む者、患者認定されない者が再び裁判に挑む。

水俣病の記録と患者の経過をまとめた文献を海外に出版を目指す先の学者は、患者に詳細な検査の協力を仰ぐが、患者は、自身の検査内容が映画で記録されることで、補償の認定度が下がることを危惧し、これを拒む。

最高裁で、再三認定を勝ち取れなかった被害者は、ついに勝訴を勝ち取る。

環境庁での謝罪要求で、曖昧な返答を繰り返すなか、「謝罪はしない」という驚愕メモのやりとりがその場でバレた環境庁職員が、とっさに立場を投げ打って、環境庁を代表して謝罪する。

熊本県知事への直接交渉では、謝罪の言葉や患者認定を進めるという意向を知事が進めたものの、あくまで独自判断ではなく、国の代理として裁判所の指示に従うと強調した。

結局、再申請を受け付けるもことごとく患者認定を棄却する熊本県であった。

特措法に反発した訴訟組は、地方裁判所で門前払いされるように敗訴。

天皇皇后の水俣訪問の際に、
患者代表の男性が、「水俣病は現在進行形である」という表現を避けたことで、批判を浴びる。

その態度の背景には、作家・石牟礼道子の親友女性が遺した、人を憎みながら生きることはとても辛いことだという言葉があった。

石牟は水俣病問題発生当初の弾劾運動を回想する。
そこで「悶え神」として、他人であっても自分のように共に悶えながら加勢するという人々の姿勢が心の支えになっていた。

そして水俣で水俣病を語ることがタブーであるという雰囲気が形成されていった。

外部とのコミュニケーションを取る手段が絶たれている重い症状を抱える女性患者が、1年ぶりの外出に出る。
そこで見た海を見て何を思うのか。

神の視点から見た海。





▼脳解剖学者のマッドサイエンティスト具合と、下心見え見え感がすごすぎる笑

▽当時の水俣病患者の脳がいくつも綺麗な状態でライブラリに保存されているのは、そこだけ時が止まっているかのようで不思議な感覚

▽脳の解剖って、手術室的なところで専用のメスとか使うのかと思いきや、普通の部屋で、刺身的にまな板と包丁でカッティングする衝撃



▼曼荼羅というタイトルが本当にしっくりくる

▽同じ旗を掲げて動いていても、個々人の考えていることや、思惑はそれぞれみんなばらばらであることがよくわかる

▽脳解剖の学者さんは水俣病を自らにとって大きな機会だと捉えているし、末梢神経説を否定した2人の学者は対立することになるし、被害者でありながらチッソで長年勤め上げた人もいれば、特措法で分断する被害者たちもいる。そして患者本人の中に、支援者たちへの怒りがあったりする。

▽100%納得はできないけど許しの道を歩もうとする患者さんたちと、それでも戦い続けるべきだろうという患者さんと原一男監督。

▽ドキュメンタリー作者が明確に自分の立場を作品の中で示しながら、被写体の心を焚きつけに行くのは、原監督の特徴に感じる。



▼環境庁の「謝るな」メモがバレる職員がばかすぎるけど、立場を投げ打ってとっさに動揺しながら謝罪する姿が、国や行政の人間の中では、最も人間らしかった。

▽国や行政には、自分の立場最優先を崩せない奴らばっかりだし、リアルタイムの当事者でもないし、それはそれでしょうがないことなのかなぁ。。という見方が強まってきてたなかで、

意外とこの人は血の通ったやつなんじゃないか...?と思わせるカオスな急展開がすごい。

▽確実に腹立つ奴だけど、どうしても魅力を感じざるを得ないなんともいえない感覚になった。



▼「ニッポン国VS泉南石綿村」でもそうだけど、弱者が犠牲になっている問題を突き詰めると、在日コリアンたちの貧しさや選択肢の無さが浮き彫りになっていくのがよくわかる。

▽もちろん現地の地域住民の貧しさや、選択肢のなさも同様だけど、ドキュメンタリーという形で突き詰めない限り、決して光が当たらない領域に、原監督は一瞬、強烈にスポットライトを当てている感覚がある
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