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ノッティングヒルの洋菓子店のヒデオのネタバレレビュー・内容・結末

2.5

このレビューはネタバレを含みます

お菓子の甘さすらわからんくらい甘々になった脳で書いたのかと思うほど、酷い脚本でした。原題Love Sarahとは、思えない、むしろhateなのでは、と思うほど母親とのドラマが欠如している。。(この映画お好きな方には大変申し訳ありません...でも黙っていられない...)

まず、冒頭主人公たちの背景やSarahとの繋がり、そして物語上重要な'手紙'のシーン。ここの描き方は大変おしゃれ。爽やかに短いシークエンスの連続で、悲劇まで繋がっていきます。
一方で全編通してそのノリで行ってしまってる、というか。登場時点よりもメインの女性3人それぞれの背景や過去の掘り下げはなく。むしろ徹底して浅い踏み込みしかしていないのに、何故か登場人物たちの心理は悲劇を乗り越える方向に変化していきます。

ミミの「思いつき」で店がうまく行ったり(もともと非協力的)、もともとハッパ吸いまくってたバレリーナが急に失意から脱したり、など動機やつながりがものすごい希薄で「(こうなったら可愛くね?おしゃれじゃねという思いつきによる)プロットの結果」が先にありきで、色々な要素を絡めたようにしかどうも見えない。

そしてラスト、墓の前で3人の女性が花を捧げ、最初に出てくるセリフが「お腹減った」!?

かーちゃんの夢叶えて、過去の蟠りも解消したそれぞれの3人が花捧げてお腹減った?!

本当にラヴサラと言えるのか?というほどもはや仕打ち、と言ってもいい所業。

ちなみに言うまでもないですが、ラスト前の店での大団円に母の面影がガラスに映るのも、あくまでもあれは母を思ってというよりも、「生きている人がどう死者を利用するか」の方法でしかなく、そこにもまったく愛を感じませんでした。

そしてラストシークエンスとファーストシークエンスを構造を重ねる手法も、やっぱり「こうしたらよくね?」感覚というか。描きたいものを見せるための手段ではなく、手段ありきになってしまっているので、映画史上もっとも意味不明とも言える、「クラリッサ鏡面映し」数分という地獄の長さ。

もうちょっと悲劇を際立たせるか、あるいは死をどう捉えたかの語りがあるか、そうした母の実在が感じられる演出がないと、人の心に愛を届けられないんじゃないかと思います。

この手の喪失から立ち上がる話は、構造上どうしても人の死が「物語を推進停滞させる装置」として機能します。どうしたって都合的に殺されていくわけなので、だからこそ、その描き方が重要なのですが、この本を書いた人はそれを意識できなかったか、むしろ意識しながら徹底して無視している。それによって描きたかったのが「前を向いて生きてく」みたいなテーマだとしたら、もう、死んでなくてもいいよサラは、とも思います。それくらい死が装置すぎて、絡まない。

書きながら劇中のお菓子も本当にうまいのか?と疑心暗鬼になってまいりましたので、この辺で。
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