耶馬英彦

サン・セバスチャンへ、ようこその耶馬英彦のレビュー・感想・評価

4.0
 ウディ・アレン監督の趣味の羅列みたいなシーンがたくさん登場する。1940〜1960年代あたりの映画がお気に入りのようだ。実存主義という言葉も出てくるし、実存的existencialという言葉も出てくる。今どき、実存的などという日本語が理解できる若い人はあまりいないだろう。同様に、existencialという英語が理解できるアメリカ人もあまりいない気がする。どちらも、日常生活で使う機会が殆どない。

 ラスト近くに登場するアルベール・カミュの「シーシュポスの神話」は1942年の発表だ。不条理がテーマの小説である。実存主義繋がりなのか、ドストエフスキーの名前も登場する。フェリーニもベルイマンも知らない人にはチンプンカンプンの作品だが、知っている人にはウケる。しかし大ウケではなくややウケ程度だろう。当方もそうだった。

 子供の頃は、人生は驚きと感動に満ちている。幸せな時間だ。誰に対しても、自分の存在を躊躇なく主張できる。
 ほどなくして、不安と恐怖が優勢になる。たくさんの子供や若者が自殺する。不安と恐怖は、人間を一生苦しめ続ける。
 ある時期から、人生が面倒臭くなる。どうでもいいと思いはじめるのだ。将来なんかどうでもいい。仕事も家族もどうでもいい。
 しかし口には出せない。「どうでもいい」を連発していると、人間関係がうまくいかなくなる。だからどうでもいいと思っていても、当たり障りのない言葉を口にする。
 人生に倦んで、食事もセックスも未来も自分の死に方さえもどうでもいいと開き直るようになっても、感動に満ちていた子供の頃の気持ちは、忘れていない。どこかでもう一度、心から感動したり満たされたりしたいと願っているのだ。人間はどこまでも厄介な存在である。

 老齢の主人公には悩みがあり、諦観がある。振り子のように悩みと諦観の間で揺れながら毎日を送るのだが、その心境は人生の悲哀そのものだ。その一方で、揺れる自分の気持ちを面白がるような余裕もある。シニカルとエスプリ。微視的で巨視的。ウディ・アレン監督の世界観が全開だ。
耶馬英彦

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