面白かったけど、フュリオサの前日譚にする必要はあったのかな?と思いました。
FRのフュリオサとは俳優が違うというだけじゃなくて、ディメンタスへの復讐を挟むことで、フュリオサとイモータンジョーとの関係性も別人のものになってるように感じました。
フュリオサの前日譚にすることで、フュリオサに理不尽の多くを背負わせるのも違和感というか、フュリオサが特別というよりはフュリオサのように理不尽な目に遭ってきた無数の女性たちがいる、というほうがわたしにとってはより切実な問題意識だからなのかも。
ディメンタスのような、信念と呼べるようなものもなく目の前の欲望に突き動かされるゆえに慕われるポピュリストの脅威を、いま描く意味はわかるつもりなので、それはフュリオサの名前を借りなくてもよかったのでは。
「私たちはモノではない」と安全を捨てて自分だけじゃなく女性たちの尊厳を取り戻そうとしたフュリオサの前日譚、と聞いて楽しみに観に行ったのですが、わたしはあまり2つの物語を繋げることができませんでした。