つっきー

竜とそばかすの姫のつっきーのレビュー・感想・評価

竜とそばかすの姫(2021年製作の映画)
4.9
細田守はフィクションの力を大事にしている。だからこそアナ雪的にこの作品を作ったのだとも感じる。

粗い部分もあるかもしれないけど、やっぱ強い祈りの作品やな

この映画は特に初見がかなりだいじだな
つくりかた的にもはじめのベルが歌うクジラのシーンまでで画面でかなり強烈なヒキをつくってるから、それがフィットするかどうかでストーリーへの没入度、ひいては評価がかわる。

ストーリーがミュージックビデオっぽいとかダイジェスト的っていうのも今回かなり音響効果を意図して使ってるのが1つと、もうひとつ、細田さんはアニメ映画だけど実写みたいに「描写」で細部に意味のある絵を見せることで想像してもらおうとする手法を使ってて、これら2点でなんとか「言及せずに観客に理解してもらう」ことに挑戦してる。だからこそ観客が映画に対して想像力を持ち寄らないといけないのよな。それをしないとトントン進んでっちゃうように見える

物語の要としては「なるべく大事なことを言わない」という描写の手法と「この世界に息づく誰かの祈りを本気で描く」ことをやってるな。だからこそ現実の実写と同じくらいこっちが読み取って、かつ誰かの祈りを真摯に受け止めて歩み寄らないと本質が見えない

ライブのシーン以降くらいから最後の方の2人を助けるシーンが都合良すぎって言うのはあれは「大人も行政も何もできないことが明るみになってしまった時代だからこそもう一度セカイ系」的ではあったな
この監督の結論が良いか悪いかはわからんけど、「描写の真摯さ」と「祈り」において作品を評価したいなと思うわね

あのライブシーンって細田守の祈りなのよね、まず
コロナ禍で人も集えない、分断の時代に
誰かを助けたいって純粋な祈りが届いてほしい、ってまっすぐすぎるくらい細田守が祈ってる
そこから2人を助けに行くところも、ご都合いいと言われようとも、現実では48時間のうちに死んでしまうかもしれない子どもたちに届かない距離(高知-東京間)だとしても手を伸ばしたい、助けたいって純粋な気持ちと祈りがあのラストを持ってくるんやと思う

実際の現実ではなかなかストレートに助けられない人がいるっていうのは監督の中にジレンマとしてあるのかもしれないが、だからといってじゃあ現実はすべて力を失ってしまったかといえば、そこまで突き放して絶望してもいないと思う。

ときに誰かの言葉とか、ただ小説を書くとか通じ合う人と心を通わせるとかそういう心理的な救いのほうが物理的な問題を凌駕することがあり、
だからこそ高知-東京間のような物理的な距離であっても、心理的なもの フィクションの祈りがそれをストレートに飛び越えうるのかもしれない

実際物理的なもの、リアリティもたしかに大事ではあってそれが映画を単なる夢見にしない部分は多分にあるのだけど、藤本タツキの「ルックバック」のようにフィクションの祈りが現実を超克するというのは創作の救い、原点のようなものでもある。

あれかも、細田守ってサマーウォーズとか時かけとか、ラストの展開に「祈りの力が状況を変える」っていうのをわりと持ってきていて、おれはそれはフィクションである作品の特権(現実じゃないからこそ祈ることで結果を飛躍させることができる)だと思うんだけど、今回は描写を大事にしてそこにこだわったからこそ最後の展開が特に都合よく見えてしまったのかもしれない。現実に描写を近づけたからこそ、近づきすぎて飛躍がフィクションに見えなくなったというか、「リアリティ警察」のアニメファンのみなさんの網にかかったかんじ。

リアリティが、って視点でフィクションを斬るのって優越感味わえるけどそれで失われものもあると思うのよな。リアリティ警察という思考停止で批判するのはだめなんだ。

限度はあるけど、作り手がおそらく一度フィルターを通してそれでも出してきたフィクションに対して、その行動原理がリアルに必ずしも即していない時、それに対して「じゃあなんでそうするの?」って考えてみるのは受け手の真摯さと思うのよな。そこに想像力が根を張る余地があると思った。

全体としては描写に徹しているだけあってリアリティには慎重で、合唱のおばさんたちの服装の雰囲気とか語らずとも説得力を感じていた。
これはたぶんラストの「祈りの力による飛躍、現実の超克」のためだと思う。

唯一リアリティなかったのはるかちゃんとの会話の中で「死んだ」とすずがいうシーン、あそこは母親の死が描かれるなかで言うか?ってちょっと気になった。ひろちゃんとのシーンで慎重に描いたわけだから、ちょっと気になるよね。

あそこで「死んだ」って言えるのはある意味コント調というか、コメディとかの異化効果の文脈なのね。だからすずに移入したら絶対にあのセリフはないんだけど、
シーンとして俯瞰で見るとあのセリフは面白いのよね。
この映画がストーリーが、とか絵が綺麗なだけとか言われてるのをみるに
本当にアニメファンが見たかったのってもしかしてキャラの切実な言葉より細密な描写よりもああいう俯瞰した時に「ウケる」ものだった可能性が存在する…?と思うと、
そりゃなかなかね、通じないよねあの映画は。と思う。

受け手にも真摯さ、物語への歩み寄りが求められていると思うな。アニメーションだからってそこをサボってはいけない。


ルカちゃんのかわいいのう!って台詞は面白くて、あの子はよくみるとLINEの文面もちょっと個性的。玉城ティナっていう外見がかわいいけどちょっと声の低いキャスティングからも見えるように、あの子は外見で綺麗と持て囃されがちだけど中身はちゃんと個性を持ってるキャラクター。


現実も大人も政治もダメだよね、だからセカイ系やるしかないんです!ってことではないと思って、これについては細田守も答えを探してるとこなのかもしれんわね。いまの現実をどうやって作品を作ることでよくしていけるのか、って

作品のなかだけでも僅かな希望を描くことで、現実を変えようとしてるんだと思ってる

おれはたぶんすぐ3回目を見ることはなさそうやけど今後細田守が次作、その次とつくってくときに振り返りたい作品にはなったな。かなりチャレンジはしてたと思うから。
肉薄しようとしてたと思う、それが現実なのか自分の理想なのかはわからんけど。

語らないようにしよう、って方針を取ってたのは尺が長くなりすぎるって都合もあるかもしれないけど、それは真摯さを求めてるのかもと思ったわね。
アニメファンに高いリテラシーを要求として突きつけてると思う。音響にかなり頼ってるのも、無意識とか語らないけど感じるみたいな物を模索しているように映った。

伏線回収もトモくんと恵のふたりは単発単発ではさりげないけど執拗にサブリミナル効果くらいに観客に刷り込んで、かつ中盤まで竜=忍くんのミスリードも効いている。一回一回の刷り込みは小さいんだけど、回数多いからかなり丁寧なのよね
振り返るとかなり丁寧に刷り込んでくれていてやりすぎなくらいだけど、だからこそ初見であきらかになったときもなるほどと入ってくるところがある。
過剰に強調しないのにスマートな回収でかなり上手。

すずが忍への好意に気づくところも「カミシンのことは好きじゃない」ってところからすず自身に真実と直面させる、っていうのがよかったと思う。

ラストのヒロインの顔に傷がつき血が出るのは「生きた血の通ったヒロイン」という矜持。ふたりの父親とすずの立ち絵がジャスティンとベルの立ち絵と対比なのは言わずもながな。仮想世界の祈りが現実を変えてくれ、という細田監督の祈りだ。

岡田トシオの「監督が観客に甘えてはいけない、セカイ系とかアニメってこんな感じでしょうって前提に寄りかかって観る人に甘えている」という指摘は嫌な感じだがクリティカルではある。
というのも、クリアに説明されない前提はたしかにあり、
そのへんのことはこの物語が「アニメーション」ではない媒体で描かれていたらもう少しぼんやりと霞むのかもしれないが。
それはある意味では細田守が細密に描写をすることによって越えていこうとしてるものだが、それを「世界観を作ることを怠る甘え」と見る人が、特にアニメファンの中にいるのもわかる。それはおそらくアニメファンはこういう物語展開が様式化されていて見慣れているからこそ「そこにただ乗りするな」と思うからだろう。

少年と少女が出会えば惹かれ合うのが思春期だしアニメじゃん、という前提の視点というのは自分の中にたしかにある。

それはある意味アニメという媒体を表現の場として選ぶなら付き纏う「アニメの様式」「セカイ系の様式」だ。

でも時にその「様式や先入観を通してモノを見る」姿勢が見えなくする部分もある。今回の作品にもそういうところはあるんじゃないだろうか。たしかに岡田の指摘は細田守が今後検討していく価値も必要もあるものだと思うが、そこでこの映画を語ることをやめてしまうにはあまりにも惜しい。

最後になるけど母との回想シーン、すごくよかった。あそこには呼吸がある。そしてその母を失ったあとにすずが部屋中にメモを散らばすシーン。本当に地獄の底に落ちたとき、そのときこそ創作が命を救ってくれることがある。僕はそうやって生き返ってきた女の人を現実で知っていて、だからこそそれがすごく心に残っている。あの叫びは本物だと思う。
つっきー

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