KnightsofOdessa

スペンサー ダイアナの決意のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

3.0
["伝統に勝る人間はいない"のか] 60点

2021年ヴェネツィア映画祭コンペ部門出品作品。『ジャッキー』や『ネルーダ』に続くララインの伝記シリーズ最新作。物語は1991年のクリスマス前後の数日が舞台となっている。王室メンバーはノーフォークにあるサンドリンガム邸で毎年恒例のクリスマス休暇を"楽しんで"いるのだが、夫チャールズとカミラとの不倫を知るダイアナは居心地悪く過ごしている。なにせ周りにいるのはチャールズの親族とその信奉者ばかりなので、基本的にダイアナは一人で出歩くことが多く、二人の息子と親しいドレッサーのマギー以外とはほとんど会話すらしない。話しかけられても、チャールズの不倫はそっちのけで、世間体を気にして"パパラッチに注意しろ、王族らしく振る舞え"の一点張りで、ダイアナの言葉を借りるなら"虫の足や羽をもぎ取って反応を観察"されているだけなのだ。

本作品は結婚生活や家父長制の伝統を包含する英国王室の強烈な伝統の数々が随所に散りばめられている。早朝の屋敷に物々しい雰囲気の軍人たちによって新鮮な食材が厳かに運び込まれる冒頭から、その儀式的な生活(休暇で来たはずなのに!)が瞬時に理解できる。部屋から外に出る度に別のドレスを着替え、休暇を楽しんだ証として前後で体重を測られ、使用人たちが全ての会話に聞き耳を立て、それを執事長であるグレゴリー少佐に告げ口していくのだ。そこから逸脱しようとするダイアナは、どこまでも追いかけてくる大量の給仕や使用人から"皆様あなたをお待ちですよ、妃殿下"という言葉を投げられ続ける。それは"あなたが妻として、家族の一員として、王族の一員として果たすべき役割を果たすのを待っている"という意味であり、逆にそれ以外の部分は全く考慮されていないことの表れでもある。映画は、"結婚"と"家族"という規範の牢獄に閉じ込められて窒息させられていくダイアナの視線を共有することで、女性を伝統や規範の内側に縛り付けようとする小さなコミュニティを観察していく。

そんなダイアナの味方をしてくれるのは、ベッドに置かれていた伝記の主人公アン・ブーリンである。彼女はジェーン・シーモアと不倫していた夫ヘンリー8世によって処刑された人物であり、規範に殺された人物としてダイアナの妄想の中に現れる。そして、アン・ブーリンと対比されるのがドレッサーのマギーである。彼女の意を決した告白によって、彼女の存在が規範の外側にあることが提示され、アン・ブーリンに続く道しか持たなかったダイアナの視界は開けていく。明らかに記号的なのには疑問符を付けたいが、解放されたダイアナとマギーのシーンは確かに美しい。

原題の"スペンサー"は主人公ダイアナの旧姓であり、チャールズと結婚した結果の現在と自由だった過去を対比させる役目を負っている。それは、サンドリンガム邸の明るく豪華だが寒々しい映像とボロボロに朽ちた旧スペンサー邸の暗いながらも思い出の温かみに溢れる映像の対比にも、豪奢なドレスとボロボロになった父のコートとの対比(つまりカカシ)にも繋がっていく。

ボリス・バルネット『青い青い海』やリチャード・フライシャー『その女を殺せ』と同じく、本作品では真珠のネックレスが引きちぎられる。カミラにも送ったのをチャールズが忘れたのかわざとなのか、ダイアナにも同じものを送るという鬼畜の所業の産物であり、それを引きちぎるのは結婚や家族といった伝統/規範からの解放と言えるだろう。しかし、階段の上で引きちぎって真珠が転がり落ちるのにも関わらず、あまり魅力的に撮られていないのが残念。

"あなたを愛してるのは私だけじゃないわ"。なんだか私までこの言葉に救われた気がした。撮影がクレール・マトンで音楽がジョニー・グリーンウッドなので、誰かの要素をバラバラと感じてしまい、ララインの映画になっていない感じがしてしまった。後半のダイアナとマギーのシスターフッド的なシーンは海岸の原っぱで撮られているので、まんま『燃ゆる女の肖像』だったし。
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