このレビューはネタバレを含みます
《おばあちゃんの魂が繋げた奇跡のような私だけの秘密》
『燃ゆる女の肖像』の大評判というもの日本でもセリーヌシアマというネームバリューが広く知れ渡り、続くコンパクトな本作は柄にもなくジブリ映画のような歳を重ねるにつれボヤけていつの間に消えてしまいそうな幼少の不思議なモラトリアムを描くもしっかりとセリーヌシアマ色に仕上げた。モラトリアムという体感的にも空間的にも限定された儚い瞬間には、この時が一生続いてくれ、と願う刹那が生じて大切にしまえるならば、同性愛繊細なシアマの印象ももっと広い観点から尊いユートピアを紡げる作家性として確認できました。
映画は非常に喪失的なパートとして感傷強い導入がされる。老婆にサヨナラを告げて部屋を出る少女ネリー。隣部屋をハシゴしながら丁寧に「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ、」と告げ退室するネリーだったが最後の部屋は母が悲しみに暮れ外を眺める。母の後ろ姿を捉え、窓の中間の枠にピッタリ収まるカタチで『PETITE MAMAN』と現れる。冒頭の得もいえぬ刹那が詰まった一連にもう涙しそうでヤバかった。『PETITE MAMAN』小さなお母さんと名付けたタイトルも次第に意味が掴めてくる。母は喪失心を隠せず、それを理解したネリーはお菓子をお裾分けしたり、祖母と暮らした実家に入るや泣きそうになる母親にすかさず懐中電灯を消す気遣いを。やがて不思議な出会いをするネリーからは小さなママ、母マリオンからは面倒見の気遣いをしてくれる小さなお母さんと可愛らしさに気が利いたタイトルだが、むしろそのラベリングを乗り越えてこそと、本作の射程は鋭いものであった。『ヘレディタリー』のような悪夢でなくネリーの祖母からの贈り物は時空を歪ませ少女時代の母親との尊い時間だった。
このファンタジックな設定は無限に解釈が広がるように同一場面の省略カットから時空の繋ぎを施すのだが、ある種場面の断絶が緊張感さえ生み出すのだ。夜、眠る時ベッドの影が黒豹に錯覚したと子供らしい思い出を語った母はカットが切れると、つい思い出が重圧になり、ネリーを残し消失する。ネリーが深夜起きると、ソファへ移った母を見つけまた寄り添う。パッと朝に移ると母ちゃんはもう消えてしまってる。また小道具や細やかな演出から人物を描写するシアマの腕も彼女の得意技であり本作も抜群に上手い。杖の使い方で辻褄合うシナリオはもちのこと、ネリーはとあるオモチャを母からお下がりの形で受け取るのだが、それはボッチ専用の玩具でありマリオンのうすら寂しい幼少期を暗示したりする。
そして、ネリーは森で瓜二つの少女と出会う。この2人を双子の子役にキャスティングしたことで阿吽の呼吸で無垢に打ち解け合う。彼女の正体は幼少期のお母さんであると徐々に判明していきながら、友だちマリオンとして接する様子もこれまた双子効果で何者かの君(この場合友人、物語上での母)さえ取っ払いひたすらシンクロした関係に見えてしまう。
また本作の不思議な時空の接続は母の実家という装置により継ぎ目なく描かれる。省略描写を意図的に強調するように「明日に瞬間移動だ」とおやすみ代わりに言うと明日にジャンプカットしたり、バースデーケーキ出てきた地点で『アラビアのロレンス』だろ、と予測通りフッとカットされたりする中、マリオンちゃんと遊んでたリビングが現在の夕食のリビングにいつの間にかすり替わってたりするのだ。
過去と今がメビウスの輪のように円環的な時空を形成し、場面を省略しながらネリーにとっての継ぎ目ない時間を紡ぐ。
母と子、母と祖母、友人の母といった何者かの役割を超越したユートピアな時間に解放される事で最終的にママのことを「マリオン」と呼びほぐしてあげるのだ。何者かで関係し合う仲を一旦チャラにした出来事を通し祖母の死を乗り越えようとしたのだった。
徹底された自然主義で描くファンタジックな世界に今回もセリーヌシアマに脱帽であった。素晴らしい。
ただ一つ難点挙げとくなら、双子の自然主義演出が突出したクレープ作りが非常に愛おしいくだりなだけにちょい浮いてる感はある。クレープ作り終わったらセリフの世界に戻されるようであったが、でも総じて天才てれびくんみたいな自然主義で大好きである。