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ボーはおそれているのambiorixのレビュー・感想・評価

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
4.5
あえぎ声のような母親の悲鳴と怒号をバックに、胎内から引きずり出された赤ん坊が逆さ吊りにされるシーンでもって本作『ボーはおそれている』(2023)は幕を開けます。ちなみにこのショット、最初は赤ん坊の主観なのかなと思いきやそうではなく、じつは産道から見た主観ショットになっているところがポイントで、この映画が「母親」にまつわる作品であることをすでに予告しています。

本作の監督、アリ・アスターの映画を見て真っ先に目につくのが「母子関係のいびつさ」であることに異論を差し挟む人はおそらくいないでしょう。『The Strange Thing About the Johnsons』(2011)のラストで自分の息子を殺してしまう母親や、大学進学を控える息子を溺愛し独り立ちさせたくないあまり毒を飲ませて殺してしまう『Munchausen』(2013)の母親、一家のあるじとして振る舞いつつも子供たちとまともな関係性を築けておらない『ヘレディタリー 継承』(2018)の母親などなど、あげていけばキリがありません。ここまでくると「彼の母親も毒親だったのではないか?」「幼少期に似たような体験があったのでないか?」などと邪推してみたくなるのですが、今回その辺にはあえて踏み込まないでおきます。

ようするに、彼の映画のなかでは、愛情のベクトルを履き違えた抑圧的な母親が家族を支配し、弱っちい子供がそれに屈従し続ける、みたいな構図が何度も何度も繰り返し描かれるわけです。それはあたかも『ヘレディタリー 継承』で母親が作るミニチュアハウスのような牢獄です。そして本作『ボーはおそれている』でその地獄はある種の極点に達するのですが、母子関係からこの映画を読み解いたレビューは他に腐るほどあると思うので、本レビューではあえて母子関係への言及を最小限にとどめ、おもに「宗教」と「父性」の2点に焦点を当てながら考察してみようと思います。

・旧約聖書と新約聖書
主人公のボー・ワッサーマンは名前からもわかるとおりユダヤ人です。本作ではユダヤ教的な要素とキリスト教的な要素とが、旧約聖書の要素と新約聖書の要素とが絡み合った状態で共存しています。でもって、本来はユダヤ人であるはずのボーが無意識のうちにキリスト教徒的なアクションをとってしまうことによってブラックな笑いが生まれます。

冒頭のシーンから47年後、ボーはべらぼうに荒れまくった北斗の拳みたいな治安の街で一人暮らしをしていました。街中にはゴロツキや殺人鬼がウロウロしているのに誰一人として気に留める様子はないし、目の前で殺されかけている人を見てもみんな知らんぷりです。これはもはや荒れているというよりは「終わっている」と言ったほうが近いのかもしれません。新約聖書の「ヨハネの黙示録」的な世界です。ある日、母親の住む実家に帰省しようとするボー。ところが、さあ出発しようかというタイミングで家の鍵を盗まれ、飛行機に乗り遅れてしまいます。慌てたボーは母親に電話をかけて弁解するも、帰省したくないための嘘だと思われてしまう。そして再度電話をかけた彼の耳におそろしい知らせが飛び込んできます。
「あなたの母親が死んでいる」

その後にボーのアパートで繰り広げられる狂騒はあたかも旧約聖書における「バベルの塔」のようです。コミュニケーションの通じない人たちがワイワイ詰めかけてきて、塔をめちゃめちゃにしてしまう。このことをあえて現代的に読み替えるなら、相次いでやってくる移民(この場面に出てくるのはラテン系や黒人だらけ)によって自分たちの既得権が脅かされることを危惧するユダヤ系エスタブリッシュメントの危機意識が投影されたものだ、とも言えそうです。その後に巻き起こる、風呂の水を出し過ぎて溢れてしまうくだりは「大洪水」の逸話まんまだし、天井から落ちてきた謎のおっさんと取っ組み合うくだりはヨナ書の鯨のエピソードを彷彿とさせます。

その一方で、新約聖書的なモチーフにも事欠きません。ボーは蚤の市で買ったマリアの像を持ち続けているし、街にはイエス・キリストの看板が貼っ付けてある。きわめつけは、通称「誕生日の男」に両手のひらと脇腹を刺される場面で、もちろんこれはイエス・キリストがゴルゴダの丘で磔刑にかけられ、両手のひらと脇腹にスティグマを穿たれた記述をそのままなぞっています。本作の感想を読むと「序盤は面白かったけどそれ以降が…」「序盤とそれ以降とでテイストが違いすぎる」みたいな文言をよく見かけるのですが、それもそのはず、ボーはイエスよろしく磔刑に処されて死に、ややあってから復活したのです。「導入部」と「それ以降」は、それぞれ「ボーが復活する前の世界」と「復活後の世界」に対応しています(もちろん「一度死んでから復活するのはあの人だった…」という読みもできる)。

・ブニュエルやスコセッシとの共通点とは?
2日にわたる昏睡状態から目覚めたボーは彼を車で轢いたドクター・ロジャーの家にいました。「これまでに起きたことはすべて夢だったんだ!」そう感じて母親に電話をかけてみるのですが、彼女は本当に死んでいました。電話口では「お前が来ないと埋葬できないから一刻も早く来い」と言われます。ここはユダヤ教の慣習を知っておかないと分かりづらい箇所かもしれません。というのも、ユダヤ教では死んだ人をその日のうちに埋葬しないといけないルールがあるからなんですね。家族が離れて住むケースが増えた現代では緩和されたそうなのですが、それでもなるべく速やかに死者を弔ってやらないといけない。ボーもルールに則り、急いで帰省しようとします。ところが。

実家まで車で連れて行ってくれるはずだったロジャーから「まだ安静にしていなさい」と言われたり、いよいよ出発だというタイミングで運悪く急患がやってくるなどして、ボーはなかなか屋敷から出ることができない。一連のやり取りからは、終業後に遊びに出かけたサラリーマンが家に帰ろうとするも道中でさまざまな妨害にあって帰れなくなってしまうマーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』(1985)や、パーティにやってきた金持ちたちがなぜだか屋敷から出られなくなってしまうルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(1962)などの不条理コメディを思い浮かべてしまいます。とりわけアスター映画の場合は、まったくの偶然や心からの善意のなかに純度100%の悪意や嫌がらせを混ぜてくるところが本当に嫌らしい。とくに夫妻の娘であるトニの悪意にまみれたエキセントリックすぎる行動の数々にはイライラさせられること必至でしょう。

・ガザ侵攻を正当化しかねないプロパガンダ劇
命からがらロジャーの家を脱出したボーは、森の中にこしらえた舞台で演劇を上映している謎の集団に出会います。おそらく本作『ボーはおそれている』の劇中でもっとも退屈でつまらなくて意味不明なもののひとつがこのシークェンスなのではないでしょうか。両親を亡くした青年のところに天使がやってくる。天使は先に進むかその場に留まるか、どちらかを選べという。青年が自分の足を縛っていた鎖を斧で断ち切ると、青年はいつの間にかボーに変わっています。軛から解かれた彼は自分の足で世界を旅しはじめます。

長々とうち続くこの地獄みたいな時間は一体なんなのか。その答えはまたぞろ旧約聖書のなかに求めることができます。ここで描かれるボーの旅というのは、ユダヤ人が世界を放浪していた時期のそれと符号します。はじめエジプトにいたユダヤ人が迫害され、各地を放浪したあげく約束の地カナンにたどり着く、という出エジプト記や申命記の記述を踏まえているわけです。ユダヤ教が最重要視する「労働」の単語が繰り返し出てくるあたりも見逃せません。ちなみにこのパートでボーは鍛冶屋になっていますが、鍛冶屋は過去に多くのユダヤ人が従事していた職業です。俺の大好きなヴェルナー・ヘルツォーク監督が撮った失敗作『神に選ばれし無敵の男』(2001)のユダヤ人一家も鍛冶屋でしたね。

ここへきてようやく、このシークェンスに感じる居心地の悪さに説明がつけられるのではないでしょうか。つまり、われわれはこのパートを無意識のうちに「クソみたいな民族にいじめられたかわいそうなユダヤ人たちが方々を彷徨ったあげく、現在のイスラエルやパレスチナにたどり着くまでのいきさつを描いたもの」として受け取ってしまっているのではないか。さらに踏み込んでいうなら、われわれがこれを追認することによって「俺たちユダヤ人は数千年前にそこに住んでいたんだ!」という、ユダヤの内輪でしか通用しないファンタジーにお墨付きを与えかねない可能性がある。本作はイスラエルのガザ侵攻前に撮られたものとはいえ、現在進行形でイスラエルの人たちがパレスチナの人たちに加える大量虐殺を、劇中劇のようなユダヤファンタジーでもって正当化している以上、反イスラエル派の俺としては気持ち悪くて仕方ないわけです。

ところが、ユダヤのプロパガンダに堕しかけた劇中劇は予想外の方向へと転がり始めます。ボーは結婚し、3人の息子をもうけます。けれども突如襲ってきた大津波によって一家は離散、ボーはまたぞろひとりで旅を始めます。一連の場面は明らかに「ヨブ記」を下敷きにしています。神とサタンのターゲットにされたヨブが息子や娘を殺され、財産を奪われ、数多のひどい目にあい、ようやっと神に対面したと思ったらシカトを決め込まれるというおなじみのアレです。ヨブよろしくボーも最後には息子と再会するのですが、そこで驚愕の事実が明らかになります。なんとボーは童貞だったのです。彼の隣の席に妊婦が座っていたことと組み合わせて考えると、新約聖書の「処女懐胎」っぽいですよね。後述しますが、この「父性が突然失われてしまうような感覚」というのはアリ・アスター映画におけるもっとも重要な要素のひとつと言っても過言ではありません。そしてこのシークェンスの最後にはもうひとりの父が登場します。

・「火」と「水」のモチーフ
劇中劇はいつの間にか終わっており、ボーの左側に座っていた老人が声をかけてきます。「俺のことを覚えているか?」実はこの老人、ボーの母親が彼を孕んだ瞬間に死んでしまったと聞かされていた父親だったのです(これも処女懐胎を思わせる)。ところが再会を喜んだのも束の間、ロジャーの家から追ってきたPTSDの帰還兵ジーヴスが父親を爆殺してしまいます。ここで重要になってくるのが「火」と「父性」です。『The Strange Thing About the Johnsons』で父親の告発文書を焼き尽くし、『ヘレディタリー 継承』で有事の際にクソの役にも立たない父親を焼き殺す、暖炉の炎。もしくは、トキシックなマスキュリニティを振りかざしていた男たちを灰燼に帰せしめる『ミッドサマー』(2019)ラストシーンの炎。本作でいえば、手榴弾で爆殺される父親や、ボートのエンジンから噴き上がるアレ…などなど、アスターの作品に頻出する火のモチーフはそれぞれ、メコメコに叩きのめされ父性をすっかり剥ぎ取られた男たちにとどめの一撃をくわえる役割を担っています。

一方で、本作『ボーはおそれている』における「水」のモチーフは「母性」や「命」のメタファーだと言えるのではないでしょうか。薬を嚥下するためのミネラルウォーター、風呂場の水、森の中の水たまり…。そしてラストシーン。現実の母親に愛想を尽かしたボーは、産道=洞窟のトンネルと海=羊水を通り、母親の子宮へと向かって、自分が生まれる前の無へと向かって船を漕ぎ出してゆく。果たしてそこで見たものとは…?

・チンポ
さて、みなさんお待ちかね、いよいよアリ・アスター映画の最重要タームである「チンポ」が登場します。ここでいうチンポとはむろん、生物学的に男性とみなされる人間の股ぐらにぶら下がっているアレのことですが、アスター監督はキャリアの初期から一貫してチンポを描き続けています。チンポからオナラを出そうと奮闘するバカ2人を描いた短編デビュー作『TDF Really Works』(2011)、エッチなことしか頭にない探偵のチンポがみるみる縮んでいく『The Turtle's Head』(2014)、そして前作『ミッドサマー』にもたくさんの無修正チンポが出てくるなど、アリ・アスターはチンポに対するすさまじいオブセッションを持っています。

しかしなぜチンポなのか、なぜここまでチンポに固執するのか。これは俺の想像でしかないのですが、ユダヤ教における「割礼」がその根源にあるのではないでしょうか。割礼というのは、子供の時分に陰茎の包皮を切除してしまう通過儀礼のことを指します。今もユダヤの家庭で割礼が行われているのか、ユダヤ人であるアスター本人も割礼を受けたのか、その辺の事情に関しては寡聞にして知りませんが、割礼というビジョンがアスター監督をチンポへと、あるいは次に話す「去勢不安」のオブセッションへと駆り立てているのではないか。

彼の映画に出てくるチンポはストレートに「父性のメタファー」になっています。しかしそのことを逆に言うなら、ひとたびチンポを失ってしまったり、チンポが機能しなくなってしまえばその人物は父ではなくなってしまうわけです。『The Strange Thing About the Johnsons』の父親は実の息子にレイプされることで抜け殻のようになってしまうし(それどころか最後は息子に殺される)、『ミッドサマー』の主人公の彼氏クリスチャンのマチズモはケーキに立てたロウソクの火がなかなかつかない(勃起不全のメタファー)くだりあたりから徐々にナリを潜めてしまう。アリ・アスター監督は、巷間言われているように「いびつな母子関係」を描く作家ではあるのだけれど、同時に「父性の喪失」を描き続けている人でもあります。

本作『ボーはおそれている』でそのことを象徴するのが、終盤の屋根裏部屋のシーン。この上なく単純明快ですよね。なぜなら、廃人と化した父親から去勢されたとおぼしきチンポがスタンドアローンで動いているわけだから(笑)。この場面におけるチンポの怪物は骨抜きにされた父親の身体を離れ、あたかもボーの母モナのように振る舞っています。支配的で抑圧的な母親と家父長的なチンポとが悪魔合体したキメラ。あるいはボーがたびたび見る悪夢を思い起こしてみましょう。そこでは屋根裏部屋にぶち込まれるもうひとりの自分(=去勢される父性)を風呂場の中(=母性)から眺めているわけです。つまりあのチンポキメラは、かつて去勢されてしまったボーの父性の成れの果てでもあるのではないか。

・アリ・アスターにとっての神とは?
ようやっと実家にたどり着いたボー。葬儀はすでに終わっていました。彼は棺に収められた母親の遺体を見やり、彼女がこれまでにしでかしてきた所業を再確認すること(あのクソみたいな街を作ったのはコイツだった!)によって母親を心の中から追い出してしまう。その後に続くエレインとのセックスの場面は、母親の支配から逃れたボーが本作で唯一「父性的なもの(つまりチンポ)」を行使する場面です。はじめておぼえたセックスの快感に打ち震えるボー。ところが次の瞬間にエレインは突然死してしまい、死んだはずの母親が実は生きていたことが明らかになるのです。

先ほどヨブ記の名前を出しましたが、本作『ボーはおそれている』のプロット自体もほとんどヨブ記です。なんの変哲もない小市民でしかない主人公がある日とつぜん災禍に見舞われ、あらゆる地獄を経巡ったあげく、最後に神と対峙する。この神というのは言うまでもなく「母親」です。アリ・アスターにとっての神とは母親なのです。この映画をざっくりまとめるなら、旧約・新約聖書をない混ぜにしたストーリーをたどったヨブ=ボーが神=母親に会いに行くまでを描いた話なのだ、と言ってしまってよいでしょう。しかしながら、ヨブ記同様にボーは神である母親の支配からどうしても脱することができない。母親の家から逃げ出し、子宮へと回帰していくボー。けれどもそこで待っていたのもやはり母親なのでした。

ラストの裁判の場面はさながら最後の審判のパロディのようです。ここでの母親は「お前はあの時あんなことをした!」「またある時にはこんなことをした!」かなんか言ってボーが過去に犯したしょぼい罪を逐一あげつらっていくのですが、去年亡くなった俺の祖母がまさにこういう人だったのでリアリティが半端じゃあない…(笑)。うちの祖母は恩着せ型というか、「お前は5歳の時にデパートでおもちゃを買ってやった恩を忘れたのか!」みたいなことを15歳の中学生に向かって言ってくるタイプでしたが。ことによるとボーも俺も、子供の時分から受け続けたモラハラ行為の積み重ねによって徐々に去勢されていったのかもしれません。

生まれた瞬間から始まり、死後の世界に行ってもなお終わらない「母による去勢の連鎖」。そしてなまじ父性を持って生まれてしまったばかりに、「チンポをちょん切られる恐怖」に未来永劫おびえ続けることを運命付けられた男。やはりアリ・アスターにとって、母子関係や父性というのは牢獄であり呪いなのです。
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