故ラチェットスタンク

ボーはおそれているの故ラチェットスタンクのレビュー・感想・評価

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
4.4
『哀れなるものたち』

 仰々しいまでの0・100の戯画化で進行していく狭窄な作劇。有り得て欲しくない事、有り得て欲しい事(そしてそれは有り得ない事)の総体としてこのフィクションは構成される。大袈裟なまでの断罪の末に如何にもフィクショナルな極刑が下る。それを僕は、有り得て欲しいと思った。

 貴方は言う。「世界は貴方を、貴方が思うようにさせてくれない。」それは違う。真実は「貴方が貴方を、貴方の思うようにしていない。」それだけのことであり、基本的にそうである。そしてそれは仕方がない。何故なら貴方は「貴方がどうしたいか」それを決定的に知り得ないからだ。そして周囲も「貴方をどうすればいいか」が分からないからだ。故に待つのは極刑のみである。前2作は良くも悪くも上位存在によりほとんどコントロールされきった世界観だったが、今作では上位存在自身の動揺も示されている。「堕ちていく」理由が単純な一枚岩ではない。「信頼できない語り手」を軸にした演出スタイル自体は狭窄だが脚本のレベルでは非常に広々とした捉え方だ。

 インスピレーション元に『もう終わりにしよう。』があるのを見てやりたいことが容易に思い当たった。アリ・アスターは今回も変わらず「作品空間を利用した箱庭療法」を行なっている。フィクションの機能を用いて自身を罰する。罰する事で、癒す。あまりに自罰的な一人相撲でどうかとは思う(それは結局何の責任も負おうとしていないと言うことだから)。しかしその切実さは無視できない。それから、やはりバッド入ったトンマナで見せ切ることで作品全体を閉じてくれる(それによってこんなしょうもない話なんですよ、という見え方になっている)ので「痛々しいね〜」という距離感で触れる見せ物として提供するものに昇華出来ている。見てドン引くも良し。癒されるも良し。この辺フレキシブルだ。

 両親に対して少なからず似た認識・悩みを共有する身としてはマジで新手のデトックス・ポルノだなとも思った。振り返ってみると『ヘレディタリー』からアリ・アスターはずっとそうだったな、とも思ったのだが、少なくとも今作はその最新版だと思う。実際要所要所でゲラゲラ笑えたし、ラストには歓喜した。率直に楽しい映画だった。

※以下、踏み込んだ内容に触れる。

 二度観て前半と後半がそれぞれ「有り得て欲しくないこと」、「有り得て欲しいこと(有り得ないこと)と言う軸で構成されていることが明確にクリアになった。前半は神経症コメディとしての娯楽度が高い。実際、浮浪者にダッシュで追いかけられるとか、水なしで薬を飲んだら死ぬとか、みんながお家にやってくる(デヴィッド・バーン?)とか、風呂の天井に知らない人が張り付いてるとか、堕ちてくる水滴がその人の汗だったとか、怖くなって通報したら警察に銃を向けられるとか、割礼した全裸の変態に刺されるとか、一度は想像したことのあるシチュエーションでそれが立て続けに起こるので楽しい。一転して後半は妄想・一人相撲で劇の世界の中で妻を得て、子供を得て、主体的に人生を選択し、理不尽に見舞われた先で全てが報われる奇跡が起きたり、かつてのガールフレンドが来てくれて、リードしてくれたりする。でもやっぱりそう都合の良いことは成立してくれない。だって貴方はセックスができないのだから。都合の良いフィクションが、夢が機能を果たさない。

 だからと言って貴方に世界が憎まれる謂れがどこにあろうか、と言うのがクライマックスである。世界の仕組みは不条理かもしれないけれど、貴方はそれを理解しようとしていないし、対処しようとしていない。そして何より、自分の矛盾と他者に与えてきた不快なまでの過失を見落としているだけである。母親に毎年同じ誕生日プレゼントを贈り、心配して自分を探す母親をただ物陰から見るだけで何もせず、承認欲求のために母親の下着をクラスメイトに触らせた。そうだ。貴方は、ずっと加害者だったのだ。それを恐れていただけなのだ。正論を突きつけられて母親の首を絞めて初めてそれを自覚するのだ。

 父が玄関先に幼い私を締め出したのは母を「馬鹿」と罵ったからだった。母が洗濯物を机に叩きつけて怒鳴りつけたのは私が渡すべきだった書類を渡していないからだった。全ては私のせいだった。でも私は世界の仕組みを理解しようとしなかった。都合よくネットか何かに逃げ込んで、鬱屈したルサンチマンと加害性を膨らませただけだった。自分にとって都合が悪いから、責任を負いたくなかったから。それだけだった。だから、そう言う人に必要なのは、ああ言う罰なのだと思う。

 ボーはおそれている。僕はおそれている。