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ウォーターメロンマンのarchのレビュー・感想・評価

ウォーターメロンマン(1970年製作の映画)
4.2
ある日、目覚めたら黒人になっていた白人男性の話。全体的にブラックコメディーな雰囲気で実際笑えてしまうのですが、人種差別問題における偏見や格差を風刺した内容故に笑いきれない"重さ"がある。

冒頭、一見白人に見える男が筋トレしてテレビに向けて無神経な発言をして、バスと競走する"日常"が描かれる。後半を見据えて対比の意図で普通の白人男性の日常を描くにしては少々ヘンテコ。そのヘンテコの根本にあるのは彼が、そもそも黒人俳優で、白塗りされた状態で演じているからでしょう。白人と黒人、その肌の色だけに着目されがちですが、明らかに骨格や唇の形などが違うので色を反転させても違和感が残る。その違和感が常にこの冒頭から始まる一幕に漂っている。この物語は別に白人俳優が黒塗りしても一応成立する話であるはずで、黒人俳優が白塗りする形を選択したことは撮影時間や本作の視座故に合理的な判断だと言えますが、この"違和感"が何より本作の外見を変えようと人種を変えられないルッキズムと人種問題の嫌な関連性を想起させている。ただこの違和感は監督が意図したことではないのかもしれませんが。

で、その違和感とは真逆の「外見が黒人なのだから、お前は黒人だ」というこれまた嫌なルッキズムと人種問題の話になっていくのが、後半です。
後半では外見がいきなり黒人になった白人が周りに黒人として扱われ、次第に「黒人」になっていくという話なっている。最初はわかりやすい色が着目される。牛乳や日焼け、醤油やカラスなんてものも引き合いに出されてユーモラスに"白"が"黒"になった衝撃を描いている。次第にその色だけの問題が、夫婦の関係の亀裂に始まり、偏見の視線や格差問題へとシフトしていき、人種とは"色"で判断されながらも"色以外"の多くの状況が大きく異なっていることが主人公を媒介に再認識される。
彼がその中で黒人的な笑い方やギャグやスキンシップを取り始める。彼は最初「自分は白人だ」と主張していながらも何故そうなっていくのか。それは周りの人間や社会の仕組みが、「振る舞いや態度は外見にあったものであるべき」という見えない強制力が存在しているからであり、その力に主人公は屈していくから。映画な表面的な部分にはあまり出てこない、彼が自身のアイデンティティを社会に奪われてレッテルを貼り付けられるグロテスクさが本作にはある。
彼の生活は一変する。黒人コミュニティで生活し、朝の筋トレは夜に仲間たちと行われるものになる。
彼の無礼な振る舞いが白人の頃は自身で気づかない程であったのに、黒人になり、他人の視線を意識することでより自覚的なものとなり、最後に完全に"黒人"になった時の寡黙さにもそのグロテスクさは表れている気がする。


人種とは何なのか。この文章の冒頭の違和感や本作で描かれた"見た目"だけに依存するものではなのだろうか?
いや、違う。その見た目の色はきっかけに過ぎず、その差がもたらす格差や偏見、そして各々孤立したコミュニティによって社会的に逆説的に人種は定義されているのだ。ある日目覚めたら黒人になっていたというバグが現実に起こったが故に、社会の歪な構造が露呈し、"強制力"によって一人の男は"正常化"される。
最後の棒付きのシーン、誰もあそこで白人を見つけ出せないし、誰もが「黒人と言えば」を理解して本作のジョークに笑いでアンサーする。それが何よりも社会の一因であることの証左となっているのだ。

二度目は笑えない。
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