先日、まだ暖かかった頃だけど、機会があってバーベキュー&沢遊びというアウトドアホリデーを過ごし。
久々にまじまじ見つめた木の肌。目は釘付け。
こんなにゴツゴツ、割れてたりして、苔やキノコが生えていて、毛虫なんかも無数に。
色々な質感の、バラバラなものを、樹木は全て支えて包みこむんだなあなんて。
木の肌がアップで映される時間が度々ありますが、その時の感慨が通り抜けていきました。
人を見守る大きな木、というのは普遍的なイメージですよね、
そういう梅を切らぬのはバカですか?という。
決められた区画をはみ出してるから、切る?
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リアリズムの呪いにかかっている私。
(『空白』『かそけきサンカヨウ』)
見ている最中すでに、地域におけるグループホームだったり、忠さんのような方々の生活だったりについて「実情はどうなんだろう」
もはや衝動的に調べたくなってましたが。
途端に襲ってくる違和感。そうじゃなくないか?
「自分とは違うもの」とみなして、一般的な情報なりなんなりを仕入れて「外からの視線」で整理して、
何か知った気になって単に自分が安心しようとしているんじゃないか?
逃げてないか?物語に面した時、それでいいんだっけ?
忠さんにどんな風に記憶が、感覚が蓄積されるのか、とにかく想像することがスタートであるべきなんではないか。
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さすがに無理解、直情的に過ぎる近隣住民だと思うけど、
パパが体現していたように、いざ自分に、自分の隣の人に問題が降りかかると途端に意見が変わるのは世の常であって。
多くの人にとって、他者の抱く苦しみの大体は、自分も経験した!て思えないと想像できないのだよね。
あと言うなれば、そもそもの母親と父親の非対称性にも、改めて思いを至らされるお話。酷いパパ過ぎるしね。
主演のお二人すごいなあ、何回か涙。