耶馬英彦

すべてうまくいきますようにの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

4.0
 安楽死や尊厳死を扱った映画ですぐに思い出すのは2012年の「終の信託」である。安楽死や尊厳死に否定的な日本社会の矛盾を、鋭くえぐってみせた周防正行監督の名作だ。役所広司の名演とともにいくつかのシーンが目に焼き付いている。2019年の「ブラックバード 家族が家族であるうちに」は、親の尊厳死に際して家族それぞれの人間模様を描いた。2019年の「山中静夫氏の尊厳死」では、患者の人格を重んじる誠実な医師の苦悩がクローズアップされた。そして2022年の「PLAN75」は、貧乏老人切り捨てを目的とした安楽死政策が施行された近未来を描いた。

 2022年末の「Dr.コトー診療所」では、人間は人生を全うすべきだという信念で真摯に患者と向き合う医師の姿が感動的であったが、医師はともすれば尊厳死よりも延命治療を選択しがちだ。医療関係者の知己によれば、医学で解っていることは、厳密に言えば1%もないらしい。それは医師も認識していて、植物状態でも延命していれば、いつか回復するかもしれないと思うらしい。しかし不治の病気が人格を阻害するのであれば、それ以上生きていたくないというのは自然な心理だ。延命のための延命ではなく、尊厳死を考える医師も増えていると仄聞する。

 安楽死や尊厳死については、医療、政策、法律が絡む難しい問題がある。本作品はそれらに正面から取り組んでいて、高齢で脳卒中を発症した父親と、その娘の心境を描く。安楽死が許されないフランスの法律と、訴えられたり逮捕されたりすることを恐れつつも、最善の医療を施そうと努力する医師、スイスの安楽死支援団体、そして父から「終わらせたい」と頼まれた娘。
 悪い人は登場しないし、それぞれの登場人物が自分なりに努力する。ただ、考え方が異なるから、スムーズに進まないこともある。しかし互いに相手の人格を軽んじることはないし、アンドレの意思は固い。物語は進むべく方向に進んでいく。俳優陣の演技はとても見事だったし、哲学の国らしいフラットな精神性がとても心地よかった。

 ただ、ひとつだけ気になったことがある。アンドレの台詞「貧乏な人たちはどうするんだろう」である。ベルンでの安楽死というか、自殺幇助には1万ユーロかかるらしい。日本円で140万円ほどだ。たしかに高額で、死ぬにあたって借金したい人はいないだろうから、預貯金がない人には出金が難しいかもしれない。アンドレは裕福だから、その程度の出費はなんでもない。アンドレは貧乏人を見下したのではなく、軽い気持ちで案じただけだ。しかしこちらはなんだかショックだった。貧乏人は死ぬこともままならないのか。

 安楽死や尊厳死の問題は、単に人生観や倫理の問題だけではなく、経済の問題でもあったのか。そういえば「PLAN75」では国家予算で年金が払えなくなって、公務員が公園で炊き出しをしながら老人に安楽死をすすめていた。これから先、岸田政権が戦争をはじめたら、若い人がいなくなって、残された老人たちが死を待つだけの国になるかもしれない。問題はますます複雑になっている。人は必ず老いるし、必ず死ぬ。これからも安楽死や尊厳死は、誰もが考えざるを得ないテーマであり続けるだろう。
耶馬英彦

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