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レッド・ロケットのCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

レッド・ロケット(2021年製作の映画)
5.0
【自由の悪魔は調和に不自由の蜜を垂らす】
ショーン・ベイカー新作『レッド・ロケット』を観てきた。てっきり、ショーン・ベイカー版『男はつらいよ』なのかなと思っていたのだが、「自由」に対して非常に深い論が展開されている作品であった。問題のおっさんが17歳の女の子をたぶらかす描写も、この論を語る上で必要な内容であった。ということで語っていく。

郊外にある男が降り立つ。彼の名はマイキー(サイモン・レックス)。元ポルノスターで十何年もまともな仕事についていない。ゴリ押しで、別居中の妻の家に転がり込む。定職につけるはずもない彼は、ハッパを売り始めるが、元締めから疎ましい目で見られている。しかし、そんな周囲の嫌悪はそっちのけで自由を謳歌する。そんな中、ドーナッツ屋にいる17歳の女の子ストロベリー(スザンナ・サン)に一目惚れする。

「自由」の対義語は自然に考えれば「不自由」である。しかし、ショーン・ベイカーは「調和」であると定義している。郊外の生活は退屈に見える。人々は、それぞれ与えられた役割を全うする。家でテレビを見る、ハッパを売り捌く、ストリッパーとして客を楽しませる。彼ら/彼女は将来どうなりたいとか、何かをしたい欲望は抑えられており、調和の中で生きている。それに疑問や苦痛はさほど感じていない。そんな郊外に侵入する異物マイキーは、彼らの生活が「不自由」に見えるように誘惑する。都市部での波瀾万丈な人生、嘘もあれども現実のものとして周りに語り散らし、ドーナッツ屋やストリップバーで勝手に営業活動をする。欲望のままにセックスもする。「現実」を知っている大人たちはそんな彼を軽くあしらう。 自由とは「なんでもできること」だが、なにができるか?なにがしたいか?が明確でなければ謳歌はできないし、謳歌しようとするとリスクがある。だから、調和のある生活を求めるし、自由はそれを阻害するものだと大人たちは思っているのだ。

しかし、「現実」を知らない17歳の少女にとって「自由」は甘美なものに見える。ハリボテでどうしようもないマイキーに対して「好きなことをして生きる楽しさ」を見出してしまうのだ。マイキーは言葉巧みに、彼女を悦楽の渦に誘う。彼の住んでいる家は寂れているのだが、毎日、知らない人の豪邸の前でお別れをすることで「この人は凄いかも」と錯覚を与える。マイキーは彼女を搾取して自分の返り咲きを計画しているのだが、それに彼女は一切気づかないのだ。自由を謳歌するとは、自分の欲望に忠実であり、それはすなわち、自分の利益のためなら平気で他者を裏切ることを示す。テレビから流れるドナルド・トランプの演説を通じて、アメリカ社会における「自由観」のミクロな存在としてマイキーがいることを強調している。

また『レッド・ロケット』は分かりやすくなった『泳ぐひと』と捉えると違った怖さが浮かび上がっていく作品だ。『泳ぐひと』は、バート・ランカスター演じるマッチョな男が豪邸に設置されているプールを泳いで回る中でハリボテな人生が明らかになっていく内容。『レッド・ロケット』もマッチョ的存在が自転車、車、徒歩による移動を通じて空っぽな人生が明らかになってくる。しかし、本作は少女だけがその正体を知らず、「自由」の悪魔に搾取され、快楽の塊に豹変するまでを描いているのでより残酷だ。

最近、大場正明「サバービアの憂鬱」を読んだこともあり郊外という空間を使ったショーン・ベイカーの自由論に興奮しっぱなしであった。

2023年ベスト候補である。
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