あるとき友人から、彼が書いた小説のデータが送られてきた。わたしはしばらくそれを読めずにいたのだが、このあいだ仕事終わりにセブンイレブンで両面プリントした39頁を携えて彼の働く店に出むいた。彼はカウンターの後ろにひとりで坐っていた。自分の書きものが目の前で読まれるのはいやじゃないかと聞いて、大丈夫だよといっていたので、彼の存在を背後に感じながら小説をひらいて、一気呵成に読み切った。とてもよかった。そのあと二人で屋上にあがって、煙草を吸いながらその小説について遅くまでしゃべった。わたしは訊ねた。彼の小説は「三十歳の冬のことだ」と締めくくられているが、なぜ「だった」ではなかったのか。すると彼は言った。過去の記憶を思いだそうとするとき、おれはその記憶をいまここにある現在としてあらためて経験しているという感覚がある、そういう感覚をそのまま小説にも書きたいんだ、と。
ヨアヒム・トリアーのあたらしい映画も、彼の小説同様、二十代と訣別し、三十歳を迎える女性の物語である。『オスロ、8月31日』の陽の短い北国の鬱々とした緊張は鳴りを潜め、まったく異なる情感を讃えた、オトナなオスロがおもな舞台である。この映画は、彼女は自分自身の人生の主人であると肯定するまでに至る生活の紋様が、序章と終章に挟まれた十二章をつうじて語られていく。自分の人生は自分だけのもの。自分の身体も自分だけのもの。その厳然たる事実を確認するだけの話でしかない。だが二十一世紀の北欧でさえも、それがかくも無視され、容易に侵犯されてしまう。十二章をつうじて彼女は自分の生をめぐる圏域を手もとに取り戻していく。その姿がいかに感動的なことか。