はじめから最後までずっと泣いてしまった。あまりにも美しい映画。コメディ調でありながら、凡庸で退屈な中年のサラリーマンがいかにして社交ダンスと出会い、やがて情熱を傾けるに至るかという変遷の描写がとても巧>>続きを読む
ポリオを患い、左手と右脚の自由が効かない男の子。トモエ学園に在籍する不具の同級生をめぐる描写が、軽く明るいタッチのアニメーションのなかでひときわに印象に残る。トットちゃんに唆され、決死の思いで校庭の木>>続きを読む
正視に堪えない拙さ。これほど潤沢な予算を投じ、名の知れた役者を揃え、こんな無様な仕上がりになるなんてと昏い気持になってくる。意味のないカットが多すぎて終始いらいらした。ろくに演出もできない監督のもとで>>続きを読む
18世紀のアルメニアの宮廷詩人サヤト-ノヴァ(「詩歌の王」)の生涯をたどった伝記映画という触れ込みだが、この作品はむしろ、アルメニアの大地で無数の人たちの交錯によって育まれてきた文化の一断面図という印>>続きを読む
10年ぶりに観る『CURE』の上映中、わたしが眠りに呑まれたのは数十秒に満たなかったように思う。その短く浅い眠りで昔の恋人が死んでいた夢を見た。若くして自死を選んだ彼女に、もう二度と会うことすらかなわ>>続きを読む
最後に待ち受けているイヴァンの死を目の当たりにして、どうしてわたしたちはこれほど無感動でいられるのだろうか、という疑念。彼の死の瞬間が直接的に描かれなかっただけではない。映画を通じてイヴァンの生涯をと>>続きを読む
しだいに半覚醒の眠りにうちに招き入れられ、わたしが見たイマージュの群れははたしてスクリーンに映っていたのか、それとも瞼の裏で拵えたにすぎなかったのかがあまり定かでない。夢現のさかい目を融解させるエクリ>>続きを読む
イスラエルの入植者が長年にわたり一方的に土地収奪を進めるMasafer Yattaで、罪なきパレスチナの民に引き金を引いたのは、IDFの兵士ではなく、自警団のようないかにも小市民的な人物だった。さらに>>続きを読む
もっともおバカで、もっともキッチュで、もっともフェティッシュで……とつい流行りに乗っかってしまいそうになったあさましい自分を諌めます。当然のように嫌いな作品だったけど、製作陣にひと言だけ届けるとしたら>>続きを読む
上映後の質疑応答で、中国系の若い女性がマイクを握る。わたしは三宅唱監督の大ファンです。これまでほとんどの作品を観てきました。この作品もすばらしかったんですが、三宅さんの監督作品はどこか「現実みのあるお>>続きを読む
被害者と加害者というあきらかな対立構図があったら、むしろ加害者の側に立って所与の問題について考えようと想像力を働かせてみる。関東大震災の直後、朝鮮人が横暴を働いているという流言飛語を間に受けた変哲のな>>続きを読む
河合優実の中途半端なプリンとか、佐藤二郎のイヤにパキッとした白シャツとか、そういう瑣末な詰めの甘さにばかり注意がいって作品に入り込めずにいた。杏の胸中の変遷を描出していくという監督の関心事は明らかであ>>続きを読む
はじめて見たときに湧き上がってきたエモーションの感じ、をよく憶えている。久し振りに見直して(劇場で見たのははじめて)、どうしてそんなに感動したのだろうと不思議に思った。今回はむしろ技巧というか、成瀬な>>続きを読む
カトリーヌ・カドゥの手がけたフランス語字幕が見事で、ダイアローグを聞きながらずっと字幕を目で追っていた。上映終わり、1960年代の日本を知る日仏の観客たちと立ち話。現実が虚構で虚構が現実で……それすら>>続きを読む
溝口健二の父はあるとき事業に失敗して溝口家の生活は困窮し、やむに止まれず姉が芸者として働きに出て、稼ぎ頭となって溝口一家の家計を支えていたという。この作品は『祇園の姉妹』以上に、溝口少年が幼少期の頃に>>続きを読む
パブロ・ララインが監督で、アンジェリーナ・ジョリーがマリア・カラスを演じた伝記映画と聞いて、怖いもの見たさで観に行きましたが、案の定というべきか耐えられなくて中座してしまいました…。千人くらいがつめか>>続きを読む
おもしろい。じつにおもしろい。スペインではホロコーストの生存者のスポークスマンとして名の知られたエンリケ・マルコの嘘が白日のもとに晒されてゆく。彼は戦後の数十年ものあいだ、大衆はおろか、家族さえも生存>>続きを読む
ぽろぽろんと空から降ってくるみたいに鳴るピアノの鍵盤。夜闇の黒に淡く滲む色とりどりの灯り。ずっと後にこの映画を振り返ったときに思い出すのはそうした音や光のつくりだす柔かな空気感だろうと思う。夜の海辺に>>続きを読む
いまからでも遅くないので、どうかあなた自身の物語を聞かせてくれませんか。難民認定のために拵えられた来歴の虚偽をやすやすと見破った面談の女性は、スレイマンに向かって穏やかに語りかける。彼は何度も躊躇を見>>続きを読む
サム・レイン・マスト・フォール。わたしは映画を観ているあいだじゅう、この標題を脳裏でなんども反芻していた。雨がまたいつか降るのと同様に、この孤独を生きる中年女性も涙を流さなければならない。しかし、いつ>>続きを読む
隣に座る上品な装いのマダムが、上映後すぐさま連れ合いにむかって、あなたが誘ったときは笑劇(farce)だって言ってたじゃない、何よこれと責めたていた。もうひとりの「いやあんまり知らなくて…」という苦し>>続きを読む
アンタルヤ地方の地中海に面する古代都市シデ。いまでもあちこちに遺跡の残る街に、両親と生き別れ孤児として育った Daphne が母を捜し求めてやってくる。彼女には成仏できずに現世にとどまった幽霊たちの姿>>続きを読む
シナリオは何もかもが予感されたとおり進行する。ラストシーンさえわたしたちの予測をなんら裏切ることはない。だが映画はすさまじい速さで疾走をつづけ、138分のすべての瞬間が斜めうえの裏切りによって形作られ>>続きを読む
ある日、夫が自宅で首を吊っていた。妻は夫の突然の死を受け入れることができずに家を飛びだして、気持を鎮めるために往来を歩き続けては、何ごともなかったように平静を装って友人や会いにいく。夫はどうかと訊かれ>>続きを読む
引き付けあうと思えば途端に反発しあう、刻々と変化をする磁場に囚われたヘロイン中毒の若き恋人たち。その気分に伝染したかのような、手持ちカメラの不安定。アル・パチーノの迫真。クロースアップの哀愁。しかし >>続きを読む
『悪は存在しない』の悪いところを抽出したかのような、余りにも退屈な作品で、何度も睡魔が押し寄せてきた。映像に付帯する音がない状態、つまりはサイレント映画としてはまったく成立していない(石橋英子の音楽あ>>続きを読む
長距離列車は西ドイツのエッセン中央駅のホームに停車する。アンナはいくらか陰鬱な町のホテルで一晩を明かしたあと、ケルンに移動してむかしの恋人の母に会い、さらにモスクワからパリを結ぶ夜間列車に乗り込んで深>>続きを読む
前作から変わらずホアキン・フェニックスの身体も、レディ・ガガの起用も、とてもよかったと思う。あろうことかフランス語吹替版を観に行ってしまったうえ(ミュージカルシーンだけオリジナルの英語)、いつも以上に>>続きを読む
五百席以上の満員の劇場でつぎつぎと席を立ってゆく同志たちを横目に、コッポラという名前に圧されてなんとか擁護したい気持で一心不乱に画面を見つめ続けるのだが、私財とはいえ、ひとりの老人のエゴにこれだけの金>>続きを読む
女性として生きるために過去を棄ててまで性転換をねがうカルテルの首領。そのために個人的に雇われた褐色の女性弁護士。ある種のシスターフッドの物語に、ときおり唐突にはさまるミュージカルシーンがリズムを与えて>>続きを読む
『ガメラ 大怪獣空中決戦』で、ギャオスとガメラの東京での衝突により、両親と愛猫を失った女の子。これまで怪獣映画で無視されがちだった(クローズアップされることのなかった)災厄の被害者に焦点を当て、そこか>>続きを読む
平成ガメラ三部作のうちではいちばんの出来。前編から打って変わって真冬の北海道からはじまるのもいい。CGの利用は最小限に抑えられ、特撮部分は本当に見ごたえがある。札幌や仙台の百貨店にできる草体の造形とか>>続きを読む
五島列島に怪鳥が現れ、人を喰う。襲撃によって壊滅した小島に訪れた調査団は、気味の悪い分泌物から知人の名前が刻まれたペンを拾い上げ、そのわきで歪んだ眼鏡がぽとりと落ちる。あるいは小さな商店街の電信柱に繋>>続きを読む
積まれた段ボールは運ばれなければならず、仕入れられた銃器は発射されなければならない。そんな映画の基本のキに従事しさえすれば、あとはなんだってありなのだ。90年代の黒沢清における悪意の伝染という主題が、>>続きを読む
わたしは海を舟でわたって、映画館に逢着する。するとはじめから海のショット。傑作であることはこの時点ですでに予感される。ついさっき見たばかりの眩いばかりの海の光景が、スクリーンに映る海の情景と重なり合っ>>続きを読む