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アヘドの膝のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

アヘドの膝(2021年製作の映画)
4.0
[イスラエル、深淵を覗くとき深淵もまた…] 80点

2021年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。前作『シノニムズ』はベルリン映画祭で金熊を受賞し、フランス映画祭で鑑賞したが、背景知識の乏しさ故に全く理解できなかった。今回はそれを飛び越えて全方向に喧嘩を売る作品を引っさげてカンヌに登場し、初のコンペ入りながら審査員賞を受賞した。今年のカンヌ映画祭コンペ選出作品は賛否両論が激しい作品も多く、全体的な平均点としては低かった傾向にあったが、本作品もその中の一つと言えるだろう。原題の"AHED"は実在のパレスチナ人活動家アヘド・タミミを指している。彼女は2017年のイスラエル入植拡大反対デモ中に従兄弟をゴム弾で銃撃されたことに対して、兵士を平手打ちした人物である。別の従姉妹がそのときの映像をアップロードしたため世界的に認知され、イスラエルに逮捕された。一連の事件について、イスラエルの報道官(?)スモトリッチは平手打ちされても兵士が抵抗しなかったことに関して"最低でも(アヘドの)膝くらいは撃っても良かったんじゃね"と発言したらしく、本作品の主人公Yはこれら一連の事件をイスラエルの加虐性の告発として映画化しようと考えている。

Yは有名なイスラエル人監督で、映画のテーマも際どいものが多いらしく、政府からの検閲を嫌う"自由の戦士"である。そんな彼が田舎での上映会に赴くと、政府側から派遣された若い女性の公共図書館局副局長ヤハロムから"Q&Aで話すテーマをこのリストの中から決めてください"と紙を差し出され、従わない場合は今後の映画製作が出来ないことを示唆される。それを言われる前からずっと態度が悪かったYは、これを言われたために態度を改悪し、彼女から"国が芸術を潰そうとしている"という言質を取ろうと行動を開始する。

本作品のテーマは大きく二つある。一つ目は自分の信じることがプラスになるよう全振りして、他の問題には興味なし、なんならマイナスの影響を与えても構わないという思想の(そしてその持ち主の)、ある種の幼稚さと傲慢さである。今回は表現の自由の規制を回避しようとすることに全振りし、その過程でミソジニーが前面に登場することを厭わない様を露悪的に描写している。主張も露悪的だが口元や膝などの部分に近寄るアップショットや、ハンディをマイケル・スノウ『中央地帯』ばりにぐるぐる動かす撮り方など映像も露悪的に構成されていて、ハラスメントを一度でも受けたことがあるならば絶対に観に行かない方がいいレベルで恐怖と不快感を煽ってくる(受けたことなくてもマジで吐きそうになる)。それによって晒される幼稚さは、ヤハロムの妹に母性を押し付けたり、母親に逐一報告したりする部分で強調され、こちらも観客をあざ笑うように、徹底的に女性をモノとして扱っていくことをグロテスクなまでに強調していく。"AHED'S KNEE"は若い女性の膝を執拗に触ろうとする過程を爽やかに描いたエリック・ロメール『クレールの膝』でロメールが爽やかさと美学によって覆い隠したグロテスクな部分を誇張する意味もあるのだろう。

二つ目はイスラエルの加虐性である。Y本人はイスラエルがパレスチナを含めた周辺諸国に侵攻することに懐疑的で、それをヤハロムにぶつけているが、それは正に社会的正義(≒アメリカ)を傘に自分よりも弱い者を虐め抜くイスラエルそのものであり、自身が否定するものと全く同質のものになってしまっているのだ。彼は"深淵を覗"いているが、"深淵もまたこちらを覗いている"ことに気付いていない。また、Yに対して都合のよすぎる終盤の展開も現状お咎めなしな国家の存在と重なってくる。

ただ、意図的に露悪的な描写をしているとはいえ、これはあまりにもグロテスクすぎる。構造としてやりたいことは興味深い部分も多く、選曲なども好ましいが、流石に二度と観たくないし、なんなら存在すら認めたくないくらい怒っている。推測だが、上記の構造が満たせれば別にミソジニーじゃなくてクィアフォビアとか人種差別のような他の差別意識と可換であるように思え、その"細部への興味のなさ"が描写以上にグロテスクに見える。この映画そのものの幼稚さ/傲慢さ/ミソジニーによって、この映画そのものが"怪物と戦ううちに怪物となった"作品だった。
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