このレビューはネタバレを含みます
揺蕩う月と水面のようにうつろいで反射して互いを見る、そこに見え隠れする危うさ。語っていいのはふたりだけ、どんな風に思われてもふたりだけがわかっていればいい。手に入らなかったものを誰かに重ね、奪われたものを取り戻そうとする。
いろんな衝動を抱え込んだ人たちで世界はできていて、それが見えるか見えないか、見るか見ないかは委ねられている。まだ世界の断片すらも見えていない気がして、ごめんねと謝りたくなった。育ちの悪い木を根こそぎ抜いてしまう母。叔母に預けて彼氏と住んでいる母。自分を置いていった母。理想に絡め取られて心身共に疲弊していく。親と子、心身の発育、性的嗜好、愛情の確かめ方。本当に根深くて親から愛情を受けても、環境などでその柔らかい心も時にぐにゃぐにゃに曲げられてしまう。
「今すぐ九歳に戻りたい。文の望む姿になって、文がしたいことを全部一緒にしたい。くちづけたいなら、すればいい。抱きたいなら、抱けばいい。わたしはそれらが好きではないけれど、文がしたいなら喜んですべてを捧げる。恋でも愛でも快楽でもなく、それでもわたしはそれを行えるはずだ。」「更紗だけではなく、ぼくは女性に対して恋愛感情や性的欲求を持ったことがない。そこより手前にいつも、自らの身体への嫌悪と羞恥と恐れがあった」
性の獲得と喪失、こんなことでと思うことは本人にとってはとっても大きいこと。欠陥を思い出させる女性という存在から離れるため、大人になれない文は子どもに親近感を抱いた。ロリコンと嘘の噂をされても。原作を詳しく読んでより分かる部分がありそう。
ふたりの正しいは世間のおかしいで逆もそうで。見たいようにしか見ない。終盤はこちらが見たいように見るという静かな強さすらも感じた。ストックホルム症候群とは一線を画している、愛よりも繊細でたしかなつながり。思ったことを言っていい、やりたいことをやっていい、住みたいところに住んで、食べたいものを食べる。自由で神秘みたいな人。それを奪われることは文自身を奪われることでもあったのかもしれない。一見不自由に見えても、ふたりでいられれば自由だった。
「店来る?」とあの時のように差し出された言葉からはじまった再会は二人とも待ち望んでいた時間みたいだった。