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カード・カウンターのambiorixのレビュー・感想・評価

カード・カウンター(2021年製作の映画)
4.3
マーティン・スコセッシの携わった映画が今年日本で2本公開されたわけですけど、個人的には監督作の『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)よりも製作総指揮をつとめたこちらの方がだんぜん好みでしたねえ。
本作『カード・カウンター』(2021)の監督はポール・シュレイダー。ご存知『タクシードライバー』(1976)をはじめ、『レイジング・ブル』(1980)や『最後の誘惑』(1988)などなど、スコセッシとのタッグでもって数々の名作を世に送り出してきた名脚本家でもあります。シュレイダーは厳格なカルヴィニストの両親に育てられ、子供の頃は映画を見ることを固く禁じられていたそうです。彼の作品においてもっとも顕著なもののひとつといえば、「家族(おもに父子)関係の破綻」のモチーフが何度も何度も形を変えて繰り返し描かれることでしょう。もちろんシュレイダーのフィルモグラフィーを制覇したわけではないのですが、少なくとも今まで見てきた映画の中に、両親や家族と仲睦まじく暮らす主人公、というのは一人も出てこなかったように記憶しています。シュレイダー当人も、あまりにも厳しすぎるクリスチャンの父と良好な父子関係を取り結ぶことができなかったのではないか、そんなことを考えてしまいます。他にも、過去のトラウマ=原罪意識だったり、社会的不正義に対する怒りだったりと、頻出するモチーフを挙げていけばキリがありません。
主人公の自称ウィリアム・テル(この名前もいびつな父子関係を連想させる)はイラク戦争時に起こした捕虜虐待事件で罪に問われ、8年半もの間服役していました。刑務所の中でカードカウンティングの技術を身につけた彼は、各地のカジノで日銭を稼いでいました。映画のタイトルにもなっている「カードカウンティング」というのは、ブラックジャックのテクニックのひとつで、早い話が「期待値が最大限まで高まったタイミングで大きく賭ける戦術」なのですが、かつてギャンブル中毒だった身としてはシンパシーを感じずにはいられませんでしたねえ。俺の場合は競馬で、近走のレースで不利を受けたり本調子ではなかったりするなどしていまひとつ力を出しきれなかった馬の人気が下がった瞬間にデカい金額をドカンと突っ込む、というトリップ・ハンディキャッピングなる手法を使っていました。このテクニックを駆使して1年間で900万円負けたわけですけど(笑)、ウィリアムの方は地味ーにかつ手堅く勝ち続けていました。カードカウンティングというのはウィリアムの生き様そのものを体現するものでもあります。同じルーティンを何度も何度も反復しながら一瞬の好機をうかがう彼の生き様を。
ある日ウィリアムのもとを2人の人物が訪ねてきます。ギャンブラーとスポンサーを仲介するブローカーのラ・リンダと、イラク時代の同僚ロジャーの息子カークです。前者はこれまたシュレイダー作品によく出てくる「自分のことを無条件に肯定してくれる聖女キャラ」ですが、この「男にとって都合の良すぎる女性表象」っていうのは女性の観客にはどう映ってるんだろう、ぜひ聞いてみたいところです。一方のカークは、例の事件の間接的な被害者でした。心身に変調をきたした帰還兵の父親が家庭を崩壊させたあげく自殺、母親はカークを置いたまま蒸発してしまった。父親やウィリアムを見捨ててアブグレイブ刑務所からひとり逐電をかましたジョン・ゴード少佐こそがすべての元凶なのだ、とカークは結論づけ、ウィリアムに復讐の計画を持ちかけます。ここでの2人は一度失敗してしまった家族の関係を疑似的に繋ぎ直すことによって、父子関係をやり直そうとしている。と同時にウィリアムは、カークに正しい道を指し示してやることで、果てしなく続く暴力の連鎖から彼を解き放ってやることで、自分が今までやってきたことの罪滅ぼしをしようとする。この「贖罪意識」のテーマはシュレイダーの全作品を一気通貫するものでもあります。街で見かけた娼婦の少女を救うことで自分も救われようとする『タクシードライバー』のトラヴィスや、ショットガン自殺を遂げた信者のために自爆テロを試みる『魂のゆくえ』(2017)のトラー神父と同じ。そして、字面を見てもわかるように、そのやり方というのは非常に過激です。ウィリアムたちが捕虜にしていたイスラム過激派の手口とあんまり変わらないのではないか、とも思ってしまう(笑)。
しかし、この贖罪意識とやらはキリスト教に馴染みのないわれわれ日本人にとってはいまいち呑み込みづらい。シュレイダーの脚本にはクリスチャン的な思考があまりにも血肉化されすぎているがために、日本人の仏教徒的な感性とは相入れないわけです。そして彼の映画が日本人(というよりは娯楽映画のファン)に受け入れられづらい理由がもうひとつあります。「カタルシスの欠如」です。本作『カード・カウンター』は、ギャンブルと復讐という、それだけでジャンル映画の恰好の題材になりそうな要素をいくつか持っているのですが、いずれも尻切れトンボのまま終わってしまう。ウィリアムがカードをプレイする場面の中にギャンブル作品につきものの爽快感が入り込む余地はないし、後述するように復讐の方も非常に後味の悪い形で遂げられてしまう。しかし、シュレイダーが本当に描きたかったのはジャンル映画的な大きな物語なんかではないのではないか。彼にとっての大きな物語は、主人公の葛藤や苦悩といった小さな物語を駆動させるための単なる触媒でしかないのではないか、そう思うのです。リチャード・ギアを使って撮った『アメリカン・ジゴロ』(1980)は殺人事件の犯人が野放しになったまま終わるし、ジェームズ・コバーンにアカデミー賞助演男優賞をもたらした『白い刻印』(1997)では事件自体が主人公の妄想だったことが明らかになって終わる。シュレイダーは起こった事件や問題の解決なんぞにはハナから興味がなく、事件の渦中にいる人間や、事件の余波に苦しめられる人間を描くことに力点を置いているように思うのです。
カークが意を決して母親にテレビ電話をかけ、その模様をウィリアムとラ・リンダが微笑ましく見守るくだりは、終始救いのない本作のなかでも数少ない感動的な場面のひとつでしょう。ところが喜んだのも束の間、カークから送られてきた一枚の写真によって観客とウィリアムはどん底に叩き落とされます。今回は演出面や映画の語り口に踏み込む余裕がないのですが、ここの見せ方ひとつとってもうまいなあと唸らされてしまいます。果たしてカークは、父親が辿ったのと同じ方向へと足を踏み外してしまう。さかのぼって考えてみると、ウィリアムはカークの背中を押すために捕虜を尋問するのと同じ手法を使ったわけだけど、あれは本当に正しいやり方だったんだろうか。暴力性を伴った父性をカークに継承しただけだったのではないか。暴力の連鎖や運命論からは決して逃れることができないのだ。そんなシュレイダー監督の苛烈な世界観が透けて見えてきます。
真っ白い布が巻かれた二対のソファに座ったウィリアムとゴードとが対峙するクライマックスのシーン。冒頭のモーテルの場面でも印象的だったこの布はいま思えば、ウィリアムの精神的なヤバさを一発でわからせる秀逸なアイテムであると同時に、アブグレイブの床にぶちまけられた血ヘドや糞尿や汗を否認するためのものだったのかもしれません。そしていま目の前にはアブグレイブで行われた不正義の象徴たるゴードがいる。画面には映らない廊下の向こうで繰り広げられる2人の格闘を観客はただ想像するしかないのだけれど、生きて戻ってきたのはウィリアムだった。再度刑務所にぶち込まれるウィリアム。映画の冒頭で映されたものとまったく同じ構図のショットが反復されるさまからは悲劇や暴力の連鎖の果てしなさを連想してしまうのですが、唯一違うのが、獄中の彼をとある人物が訪ねてきたことでした。このラストは好みが分かれるところかもしれません。「『アメリカン・ジゴロ』と同じだろ!」とぶち切れる人もいるだろうし、さいぜんも書いたように、ひとりの聖女的な女性の全肯定によってダメ男が救われる、というのは単なる甘えだろう、とも思うからです。しかしそれでも、2人が面会室のアクリル板越しに指をくっつけ合うあのラストショットには涙せずにいられない。犯した罪を抱えたまま苦しみ、擬似的な父子関係の構築にも失敗し、またぞろ暴力の連鎖に自らを組み込んでしまったどうしようもない男にだって、ささやかな救いがあって良いじゃあないか。完全に止まってしまうのではなく、超スローモーションで少しずつ動き続ける2人の指は、やがて訪れるであろう彼らの未来を暗示しているのではないか。そう思えてならなかった。
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