かきたろう

笑いのカイブツのかきたろうのネタバレレビュー・内容・結末

笑いのカイブツ(2023年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

松本人志の「遺書」は、そこで示されるいくつかのテーマによって現代の日本における最も重要なカルチャーであるお笑いに関するマインドセットを決定づけたといっていいと思う。

そのテーマの一つは、面白いやつと楽しいやつは違うということ。
楽しいやつはクラスの人気者で、面白いやつは一人で教室の隅にいるような"あぶない"やつであると定義し、楽しいやつは陳腐な発想しかできないとすることでその序列を明確にした。

二つめは、面白いやつの条件にネクラと貧乏を入れたこと。
これにより多くの人がコンプレックスと感じることを"面白い"というポジティブなイメージに転換させることを可能にし、むしろそのようなコンプレックスが存在しない人間は面白くはなれないという逆説も生み出した。(もう一つの条件として女好きが存在することは、諸般の事情から巧妙に無視されている)

三つめは、面白いことを理解するにはセンスが必要であるということ。
お笑いのホームランは野球のホームランのように誰が見ても明らかなものではなく、センスのあるものにしかわからない。
よって、相手が自分の言うことで笑わなくても相手にセンスがないというようにその責任を転嫁することができるようになった。
つまり努力や失敗によって自分を変えていく必要がないと言うこともできる。


面白いやつは人気者より偉く、その面白いやつになるにはネクラである必要があり、しかも自分の面白さはセンスのあるやつにしかわからない。
この冴えない思春期学生にとってあまりにも魅力的な考え方は、お笑いがサブカルチャーから超メインストリームに祭り上げられることになった一つの(あくまでも一つの)要因だと思う。


つまり、
彼ら(冴えない思春期学生)は彼らの自尊心を傷つける苛烈な社会から逃れるためにシェルターを作り上げた。
彼らの自尊心を守りきるためにはそのシェルターを会員制にする必要があり、その証書を"お笑いがわかる"という判定基準が不明瞭な非常に抽象的なものに定めることで、彼らのコンプレックスを刺激する存在を任意に排除できるようにした。
さらにお笑いがわかる側の人間である証明のための作品や人物が名刺がわりに選ばれるようになった。

そこに生まれるのは面白い基準の設定者をはじめとした一部の"芸人"を正義とする選民的かつ画一的社会であり、本作で主人公が泣きながら言う"正しい世界"はまさしくそのような、"面白いやつ"しかいない漂白された世界。
大喜利のレジェンドも、ラジオの芸人に認められることも、この"わかる"という抽象的な証書の具体的な形でしかなく、結局のところ彼が欲しているのはその証書、つまりあるコミュニティからの賞賛や承認であって、笑いはそれを得るための手段でしかなかったのではと思わずにはいられない。
そしてその構図は多くのいわゆる文化的なコミュニティに見られる(そして無邪気にそういう序列をつけたがるコミュニティがあまり好きじゃない)。

嫌っているはずの社会を笑わしたいというのは、泣き叫ぶ主人公をなだめる際にピンクが指摘するような根本的かつロマンティックな矛盾ではなく、彼はおそらくもともとは社会が好きで、自分を好きにならない(自分の思い通りにならない)社会のことを加害者として転嫁し勝手に嫌いになっただけではないだろうか。
問題はそのときにどう反応するか。
社会から好かれる自分になるか、もう社会を好きにならないか、それとも特別仲良くもないが喧嘩もしない関係性を維持するか。

アンダーグラウンドからメインストリームに乗り上げたカートコバーンは確かに自殺した(諸説はある)。
そしてそれはアングラと王道の矛盾を象徴するものと捉えられ、さらに神話的なまでの名声を博すことになった。

菅田将暉と仲野太賀が共演しお笑いをテーマにした連続ドラマ「コントが始まる」でも、まるまる一話27クラブに影響された登場人物を描くエピソードがある。

なぜお笑いで何者かになろうとするものとカートコバーンは共鳴するのだろうか。
アングラなジャンル出身でありながら世界的スターとなり、その矛盾に自ら決着をつけた(と捉えられる)カートコバーンへの憧れは、弱くてダサくて勉強もスポーツもできない冴えない"男"子のために用意された、溺れたものがつかむ藁のような存在だった90年代以降のお笑いカルチャーと、そんな彼らの愛すれど憎らしい社会に逆転を期そうとする試みに無邪気に重ね合わされている。

しかし既存の社会や規範を逆転するにはそれ相応のパワーが必要で、それが新たな権威となる。
反権威・反社会的な態度で特徴づけられるようなサブカルチャーのファンですら、彼ら自身がそのような権威をほとんど無条件に信奉することを隠しもしない。

面白いかどうかが全て、という選民的なセンスは、この作品の中では天才の苦悩という表現に置き換えられており、文化的エリート主義をいくらかロマンティックに描くことには成功していると思う。

この主人公とその原作者はおそらくどんな問いにも面白い回答を返すことができるのだろうが、より深刻な、そして個人的に興味のある質問をこの映画は問うことすらしてなかったように見える。
一体なぜ彼はそれほどまでに認められたかったのか?
かきたろう

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