このレビューはネタバレを含みます
予告にも出てくるが映画は窓の向こうでペイントボールを使って遊ぶ子供達を見守る主人公のシーンから始まる。
窓の向こうの模擬的な戦争から始まるのだ。
印象的なオープニングから監督の持ち味である1シーン1ショットで映画は進む。
始まってしばらくはスクリーン奥に窓、その窓の内側に主人公を配置したショットが続く。
窓の外に写るものはペイントボールでの模擬戦から、他人の死体、映画、夜景へと変わっていく。
そのショットの連続が続く間は主人公自身が痛みを感じる事はない。
ペイントボールでの模擬的な戦争はもちろん、ドライブインシアターで娘と観る映画も、作品の判別こそできないが、映画という存在そのものに暴力性とその暴力性が観ている側に少なくとも物理的には作用しない特性がある。
監督いわくウクライナとロシアは7年前(2021年時点)から戦争状態にあったということだ。
医師である主人公は冒頭での会話や日々運ばれてくる患者の存在で戦争中である自覚も間違いなくあるはずだ。
しかし、そこにはまだ痛みは伴わない。
窓の外に街の夜景を望む部屋で趣味なのだろうか、レコードを聴く主人公にとってその部屋が心安らぐ空間という印象を持つ。
この後何度か同じ構図のショットがあるが、いずれも意味合いがへ変化していく。
そして最も穏やかなシーンの後、痛みは窓の外から撃ち込まれる、それまで彼を守っていた窓は砕け散る。そしてそれ以降は彼を直接的な痛みが襲う。
窓の外側の痛みは記し難いほど生々しい。
知らない拷問器具(手回し発電の電話を拷問改造したもの?)ですらそれがリアルに感じるほど。
彼の痛みは限界を迎える。
ありのままをドキュメント的に撮った映像は、彼が痛みを感じるシーンでそれを描写するのではなく、
命を救うはずの医師である彼が痛みよりは、と死を与えるシーンでより明確にそれが描かれていた気がする。
捕虜交換で日常に帰った後も彼の痛みは止まない。
家に帰った彼はカーテンで窓を閉ざす。痛みをともなう世界を閉ざす。
日常を取り戻したと思っていても痛みの恐怖は音を立てて突然現れる。拭っても痕は消えない。
親子で鳩を火葬するシーンは拷問を受けていた時の反復でメインビジュアルにも使われているがこの鳩は痛みの末に死に至った存在だ。
彼自身が死を与えたアンドリーも彼の中では傷の一つであろう。
彼の最も大切な娘も痛みにさらされる。例えそれが戦争でなくても痛みに代わりはない。
ここからは一連の流れのようにも感じる。拭っても消えなかった鳩の痕は雨に流され消えていく。
そして彼は野犬に襲われる。言葉にすると馬鹿らしいが本当に彼は野犬に襲われる(ウクライナには当たり前のように野犬がいるのだろうか?)
何匹もの犬に襲われ噛みつかれる。悲鳴をあげる彼は偶然近くでポロに興じていた通行人に助けられ(ポロ!?)またも生還する。
痛みを感じるということは生きるということの反射なのだ。
そして彼は愛する者とともにこれからも生きてゆく。
かなりこじつけじみたこの作品と痛みの関係だが、そういう視点から観れば、この映画は戦争を題材にして、かなりパーソナルな痛みという感覚を描いた作品だと思う。
エモーショナルなわかりやすい話でなくかなり技巧的な映画だとも思う。
それでもこの映画には今この瞬間も繰り返されているであろう戦争の痛みが写し出されている。
あえて時系列での言及は避けたがゆっくりとこちらへ近づいてくる「ロシア連邦 人道支援」の文字とその中身は本当に笑えない冗談だ。
いち映画ファンとして素晴らしい才能を持つヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督の存在は忘れられないだろう。
それと同時に彼が今も戦火の中で痛みをともなう危険と隣り合わせで生きている、ウクライナの映画人であることも絶対に忘れない。
序盤を振り返ると私達観客と重なるようにも思う。今本当の痛みを感じてる人がいる。
一刻でも早く平和が訪れることを願う。
不要な痛みなど無ければ無いに越したことはないのだから。