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わたし達はおとなのnetfilmsのレビュー・感想・評価

わたし達はおとな(2022年製作の映画)
3.8
 大学でデザインの勉強をしている優実(木竜麻生)には、演劇サークルに所属する直哉(藤原季節)という恋人がいる。絵に描いたような理想的なカップルは、螺旋階段のあるコンクリート打ちっぱなしの部屋で真にリア充な日々を送るのだが、やがて彼女が妊娠に気付いた辺りから2人の心情は大きく揺れる。一見して「あなたたちは子供」などとツッコミを入れたくなるタイトルを付けるあたり明らかに自虐的だが、いかにもイケている若者が作りそうな映画全体のルックに驚くと同時に、ある種の絶望的な感慨すら抱かせる。男女の微妙な機微を描いた映画で真っ先に思いつくのはジョン・カサヴェテスとジーナ・ローランズ夫妻だが、ジョン・カサヴェテスの映画ではある時は夫であり、ある時は父だったはずで婚前の2人の話など聞いたことがない。それが今作では父になる前のまさに「父未満」の男が、生まれて来る子供の「種」に一喜一憂する。女の方も迂闊で、1度別れた僅かな期間に別の男と関係を持ち(この描写も心底気持ち悪い)、とどのつまり、どちらの種だかわからない。まさにサスペンスフルな嘆かわしい事態に陥っているというわけだが、申し訳ないがそんなことは君たちで何とかしなさいとしか言いようがない。

 そもそも「おとなになっていくわたし達の、ほんのひと時の、だけど永遠の─あの時。」というキャッチ・コピーが一部の若者には最高にエモいのだろうが、観ているこちらには相当に気持ち悪い。何か変なものに被れてしまったのではないかと心配になる。平仮名でおとなとか言う前にまずは、結婚-妊娠の手順を誤らない大人になりなさいと老婆心ながら忠告したい。大沢何某と喜多嶋何某が大前提として話し合うべきだった人間としての会話を、スクリーンの前で別の役者に演じられたところで、結論は産むか産まないかの二者択一論だけで、映画的な拡がりは殆ど閉ざされている。DNA鑑定どうのこうの言う前に、まずは女性を労ってあげようよ、お腹の中にいる赤ちゃんを大事にしてやりなよと。そもそも直哉が死ぬ気で打ち込んでいるはずの演劇の場面がまったく見られないのはどうしたことか。演劇をやる場面がなく、いつも演劇を観に行く場面だけ。優実の方もまず大前提として、どちらの種だかわからないという事実を直哉だけではなく、もう1人のあの立ちバックかましたゲス男の方にもぶつけてみましたかと(連絡先不明なら友人から辿るべし)。ジョン・カサヴェテスとジーナ・ローランズ夫妻のようなのっぴきならないやりとりは無理だとしても、そういう具体的な行動をすっ飛ばして、DNA鑑定はしないとヒロインが言い張るなら関係の修復など望むべくもない。

 そう論理的に説明できる人間は大人で、自分たちはおとなになれない子供だと言うならば最初から身も蓋もない話だ。ごめん、背中に射精されたヒロインの裸体の引きの絵とか、心底気持ち悪いから。あのポスターの頬を押さえ付ける様な関係性も吐き気がする。無理。然しながら一方で今作は感覚的に新しく、目が離せないのも事実で、スクリーンの前で優実と直哉の一部始終を固唾を飲んで見守った私がいた。その一番の理由は込み入った演出を細部に至るまで一気呵成に見せ切る体力と集中力にある。まさに初期騒動の塊のような映画で、この青臭さは10年後に観たら(いや、5年後に観ても)気恥ずかしさしか感じない映画だ。この感覚は映画をたくさん観たり、映画の現場で10年学んだ人間からは残念ながら出て来ない。稚拙だが初期騒動と集中力で真っ白なキャンバスに向かった者のみが達成出来る万能感とナルシシズムとリビドーが一緒くたになり、宇宙に放出される感覚。大の大人が100人集まっても出て来ない感覚で勝負している映画で、幕間に菓子パンや銀紙に包んだおにぎりを食べるような普通の映画ファンの手に負える映画ではない。まるで衝動的に入れたタトゥーのような感覚。モラトリアム拗らせながら、わたし達はおとなだと断言して憚らない日本の若者たちのピュアなあの日の記録。ダサいけど凄い。もの凄く青臭いが不思議と嫌いになれない。
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