猫山

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーの猫山のネタバレレビュー・内容・結末

4.8

このレビューはネタバレを含みます

「大衆向け」の一つの正解を見た気がする


「見た人全員に楽しんでほしい」という思いを強く感じる、
“映画に入り込みきれなかった人々”すらも取りこぼさない工夫とバランス感覚に痺れてしまった。


まず、一般的に「大衆向け」と言われるシンプルなストーリーのハッピーエンドで多くの人を楽しませる。
マリオをあまり知らない人でも楽しめるように、鮮やかな色合いとカメラワークで画面的な面白さを作る。
加えて、ゲームのファンに向けてこれでもかと小ネタを詰め込む。
そして、“楽しみたいのにどこか入り込めなかった人たち”のための対策も用意されている。これがとてもすごいと思った。

非常に衝撃を受けたので、ストーリーも映像も曲も諸々良かったのだが、この“入り込みきれなかった人たちの対策”を取り上げさせてほしい。


対策はひとえに、チコに集約されている。

彼は他のキャラと同じく檻に入っているのに、唯一そのことに恐怖せず、死が救済とすら発言するシニカルなキャラだ。
この「周りと同じ状況下で周りと違う考えを持つ」という点が、
“映画館にいる中で、どこか楽しみきれていない人”と重なるところがある。
そんな彼だからこそ、そんな人々を置いていかないキーパーソンたり得るのだろう。

それが分かるのがエンディング。
あまりにハッピーな終わり方をした本作に対し、「出来すぎたハッピーエンド?」と意見を投げかけた後、「まぁトランペットでも聞いてよ」と持っていくのだ。
これがすごい、とてもすごい。

「骨太な考察しがいのあるストーリーを期待していた」「そもそもハッピーエンドは好きじゃない」「捻りがほしい」。
理由は様々あれど、「映画に入り込みきれなかった」と感じる視聴者は少なからずいるはずなのだ。
そして、おおかた「ハッピーエンドに乗り切れなかった」という点が共通している。
つまり言い換えれば、最後の最後で映画に置いて行かれてしまう。

それがエンディングで幕が閉じ切ってしまう前に、
つまりギリギリ映画に舞い戻る余地のあるタイミングで、
置いて行かれた視聴者に、“映画のキャラが”共感を示す。
その上でエンディングに続く演奏を始めることで、映画の世界に再び引っ張り込んでくれるのだ。

何よりそのハッピーエンドを擁護したり、視聴者に楽しむことを強要したりしない。
「自分の考えとは違ったけど仕方ない」という態度をとった彼が、
“楽しみきれなかった人々”を許容しているのだ。

これによって楽しみきれなかった人々も、「まぁ自分には合わない展開だったけど、エンディングは聞いてやるか」と、どこか受け入れる姿勢を取れる。
置いて行かれたはずの映画の世界に対して、
客観的になりながらも隣を歩くような気持ちになれるのだ。

この、決して見捨てはしない作りが、なかなかできるものではないと感じるのだ。


それこそエンディング前のチコ、下手をすればハッピーエンドを楽しんだ人々にとっては水を差す展開になりうる。
しかし彼らにとっても“エンディングを盛り上げる一要素”として作用している。

それまでの発言からして、チコの登場は「また余計なこと言いにきたのか」「何か流れを壊すような行動を起こすんじゃないか」という少しの緊張感を生む。
そこからトランペットを演奏しだすわけで、
緊張→解放→壮大なエンディングへの突入
という流れが美しく出来上がっているのだ。

他にも要素として、
・ゲームにおいて比較的人気キャラのチコをこの役にあてたこと
・かわいい見た目と声であったこと
・事前にセリフで「人生」(人じゃないのに)という単語を複数回使い、どこかメタ的に違和感を持たせるきっかけも作っていたこと
が、とても上手く作用していると感じる。


この絶妙な塩梅でどちらの層にも寄り添えること、とてもすごいと思うのだ。
私は鳥肌が立ったし、かなり衝撃を受けた。

この誰も取りこぼさんとする姿勢こそ、
真の意味での「大衆向け」なのではなかろうか。
猫山

猫山