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イニシェリン島の精霊のrakanのレビュー・感想・評価

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
4.5
なんだこの作品は。ものすごくおもしろかった。

本作の舞台は1920年代のアイルランドの孤島だ。海を隔てた先にある本土では戦火が広がっているが、島側におよんでくることはない。まさしく対岸の火事だ。

この島の住民たちは、閉鎖的な空間においてはほとんど顔見知りで、みなどこか無気力で鬱屈としている。

主人公のパードリックは、愛するロバと、同居している妹と、バーの飲み仲間さえいれば、何も求めないという無欲恬淡な男である。しかし唯一無二の親友であるコルムが、突如パードリックを拒絶する。しかし理由がわからない。

納得がいかないパードリックは、ゆく先々で自分を無視するコルムに問い詰める。とうとうコルムはパードリックに真実を告げる。

「お前が退屈な人間だからだ」。

パードリックが退屈な人間だなんて、妹はもちろんのこと、実は住民全員が知っていた。日中からバーに通い詰めて、延々とロバの糞の話をするような人間と付き合う時間が惜しい。のこりの人生をこの島で有意義に思索と音楽に費やしたいという思いで、コルムはパードリックを拒絶したのだった。

それでも友情を取り戻そうとするパードリックと、完全拒絶をするコルムの2人の関係はしだいに狂気めいていき、とりかえしのつかない争いになっていく。
  
パードリックとコルムの対立のストーリーには、本土の紛争が結びついている。対岸の火事の火の粉は、孤島にも散っていた。

そして死の象徴である精霊が住まうという寓話が、島民たちの内面におよんでいると思えば、作品に通底している不安の予感もわかるような気がする。登場人物の一人、老婆マコーミックは実在の死の予言者でありながら、非現実的な存在として作中のところどころにあらわれている。まるで死の精霊・バンシーのように。本作品にはさまざまなシンボルと意味が多層に折り重なっているのだ。

ちなみにだがコルムが弾くバイオリンは、本土から流れてきた文化に染まったキャラクター像を浮き彫りにする装置になっている。

コルムはただただカブれているのだ。偉そうなことをいうわりには、モーツァルトの生年の間違いをパードリックの妹に指摘されている。しかも作品の描かれているかぎり、どうも才能があるようにはみえない。家に民族の仮面や能面がぶら下がっていたのは、外の世界への憧れだろう。

それでも縋るようにして、指を失ってもバイオリンを引こうとする姿は悲壮や健気さのギリギリを少し超えて、もはやユーモアも顔をのぞかせる。あんなに血を流しながら指揮している絵柄は、さすがにシュールすぎる。

そんなコルムだからこそ、教養人であるパードリックの妹が、実は本心では兄と島から離れて本土にいきたいという思いがあったことを見抜けたのだ。
 
閉鎖的な小世界で沸騰した狂気を、どこかコミック的なユーモアでまぶしているのが、この作品の味付けになっていて、独特な世界観を描き出している。凄惨な切断シーンも、暴言を吐く神父も、ロバの死に方も、パードリックの異常な行動も、ちょっと笑える。これをブラックユーモアというにはいささかキツすぎるけど。。。

1ついえることは、パードリックを適応障害といった特殊あつかいするような見方はつまらない。なぜならパードリックもコルムも、島の住民も、ある意味病いにかかっていて、なおかつこの作品を見ている自分たちも、多かれ少なかれ、その病原菌をもっているはずなのだ。

この映画は普遍的な物語である。
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