KnightsofOdessa

Sisterhood(英題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Sisterhood(英題)(2021年製作の映画)
4.5
[北マケドニア、拡散される小さな悪意] 90点

大傑作。ベスト入り。

シスターフッド:女性同士の連帯を表す語で、友情と似ているものの利害関係を超えた関係性のこと。

引っ込み思案なマヤとパリピ予備軍のヤナは親友同士で、学校でも放課後のプールでも休みの日も常に一緒にいる。複雑な家庭環境に身を置き、逃げ場のないマヤにとって、ヤナは唯一の逃げ場であり、かけがえのない存在だ。マヤはクラスの人気者クリスのことが好きで、ヤナもそれを応援しているが、クリス本人は同じグループにいるエレナという少女が好きなようで、マヤとヤナは彼女のことを陰で"売女"と罵って蔑んでいた。ある日、パリピたちに誘われてパーティに行った二人は、屋上でクリスをフェラするエレナを発見し、腹いせに撮影して拡散する。翌日、エレナは学校に現れなかった。その翌日も、そのまた翌日も。

本作品を観て真っ先に思い出したのは、子供どうしの諍いに親どころか世論と警察が加担して憎悪が膨れ上がるSNSイジメ映画『John Denver Trending』である。大きく異なる点は、同作が被害者目線の作品だったのに対して、本作品は加害者目線であることだろう。だからこそ、動画を拡散して加害を行う不特定多数の名も知れぬ人々の存在は、加害者であるマヤとヤナには見えないし興味がないから、本作品では全く無視されている。彼らを登場させることで映画までもが加害を行うことを阻止しようとしたんだろうけど、当然のように不在であることがやはり強烈。また、学校側がこの動画拡散に対して何もしないことだけは一致していて、この"大人の不在"はどちらも全編通して貫かれている。特に本作品は、離婚したのに未だ結婚指輪を外せない母親と離婚成立前から関係のあったであろう女性が妊娠している父親という両親の存在(或いは不在)によって、大人の世界とも断絶しており、子供から大人になる過程を描きながら、その行き先が見えず迷子になっている現状と合致してしまっているのが苦しい。

同作と同じ点として、本作品の中心にはSNS時代の青春が置かれている。マヤ→クリス→エレナという三角関係は、エレナがインスタのフォロワー3000人で、クリスがその全部の投稿に"いいね"を付けているという台詞で導入される。ギリギリ学生時代にスマホがなかった私から見ると、学校の人気者がそのまま"世界"の人気者となって、その"人気"が数値化される、或いは異性に"いいね"することが"付き合ってるわけじゃないけど好意があること"の可視化に繋がるなど、耐え難いほどの残酷さを孕んでいるように見える。しかし、"子供"としての感覚はスマホの登場前後でそこまで変わったとは思えず、二人が動画をポストしたのも、口頭で噂を流すくらいの軽さがあったように思える。興味深いのは罪の意識に苛まれるマヤが拡散し肥大していく他者の悪意から目を背けようとスマホを見なくなったのに対して、この機会を利用してパリピ集団の仲間入りを果たすヤナは"トレンド"に対して敏感で、途中でSNS批評から逸脱しそうになるポイントで、エレナの行方を案じるストーリーをマヤにポストさせて周りに溶け込ませたり、或いはエレナの死を誰かのストーリーで知ったりと、手放せなくなったスマホという道具に対する距離感を後半でも維持し続けていたのが印象的だった。

また、動画が拡散された翌日にエレナは他の生徒から売女扱いされ、逆にクリスは英雄扱いされている点も興味深い。こういった場合、女性側だけが被害を被り断罪されるという考察はラドゥ・ジュデ『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』でも語られていたが、同作でも動画に登場していたエミの夫は映画に登場すらしなかった。多くの人はエミのように真っ向勝負は出来ないと思うので、エレナの行動は本当に痛々しい。ちなみに、この出来事は監督の実体験らしく、被害を受けた女性は転校し、遂には国も出ていってしまったらしい。

ヤナとマヤの関係性は、奥手なマヤをヤナが引っ張っていくというありがちなものだが、エレナが行方不明になってからは一瞬でフレネミー的に変質し、グロテスクな支配関係が表面化する。撮影したのはヤナ、ポストしようと言い始めたのもヤナ、でも"ここでエレナの悪行を見逃したら一生クリスと付き合えないよ?"と言われてポストしたのはマヤだったので、表に出てこないだけで冒頭の瞬間(湖に浮かんでいたマヤの顔をヤナが掴んで水の中に引きずり込む→ラストで反復するのが見事)からこの支配関係は成立していたのかもしれない。いずれにせよ、事件に対する態度の違いから、親友だと思っていた人物が最も近くにいる他人であることが判明する過程をグロテスクに描いており、後半以降は"おい何か喋ったのか?"以外の会話が無くなってしまうのに恐怖を覚える。彼女たちの関係性は"シスターフッド"とは言い難く、冒頭の引用句を定義と仮定するならば"シスターフッド"よりも利害関係との親和性が高そうな"友情"を描いていると解釈することができるだろう。

撮影監督 Naum Doksevski によって印象的に収められた水の映像は、その圧倒的な美しさと静けさによってマヤとヤナという二人の人物を世界から切り離し、そこに二人だけの世界を作ることに貢献している。湖やプールなど、二人は水の中でじゃれ合い、互いを探し、見つめ合う。だからこそ、中盤でエレナが水の中に侵入してからは二人の関係性が破壊されてしまい、水の中で互いを見失い、最終的に水の中で決別を迎える。また、マヤの表情や眼差しの揺らめきを具に収めたアップショットも流麗で、嫉妬し、混乱し、拒絶されることを恐れながら正しい道を模索しようとする彼女の感情を、言葉少なに表現しきっていた(これは演じる Antonia Belazelkoska も凄まじいんだが)。
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