グロテスクリアリズム。五分経てばその世界に順化しきっている人間のもつ認識の浅はかさと素晴らしさをメタ認知しながら、見続ける。
黄金の丘における賭博行為のみが陰影としての救い。
Tender Is the Night 夜はやさし
絡みあいが絡まっていくなかで瞬間、ほどけとむすびが一体になるときもある。
デフォーというよりセルバンテス。もはや野蛮になることも叶わない。憐れなドン・キホーテ。
運命を引き受けるという名の下に正当化される暴力の連鎖。その軛から解き放たれる方途を各様が求めている。
映画の可能性を撫で回す。その仕草の官能と滑稽に惹きつけられるのだな。
サークとカウリスマキの融合。呆然と自失が、エロスとタナトスの翻訳でもあれること。
発話が身体表現へと形成していくとき、歌舞音曲という言葉が浮かんでくる。最上のミュージカル。
火事場の途方もなき流体画、箱庭から作庭の精神。生きるに値する世界を顕現するための友愛と母神。
小細工が小賢しさと紐づいてしまうほどに機能していない。
起伏のない筋書きを貫くとするならば、不要なギミックの群れは何なのだろう。
深刻さだけ漂わせ、内面と内省はボカす。ある種の結末や決断は闇に任せ>>続きを読む
諸行無常の響きあり。
有常としての愛ではなく、無常という時間の露呈こそ愛であるという諦念にして、確信。
形式として何かが存在していることの安堵と投棄。愛は述語規定を拒みつづけていく。
愛がそうで>>続きを読む
ダルデンヌ印の哀しみを、私たちはいつまで学び続けるのか。彼らがいなくなったとき、その風格を纏う人間は現れるのだろうか。もうすでに現れている、いや、現れる必要はない。
懐かしの、そして先鋭化された市民像としてのフーリガン。戦慄するようなショットは感じられず、緩やかな怠慢を帯びているようだ。
優美と高貴が手を携えて、懐胎と廃退へ向かっていく、まさにオーストリア=ハンガリー帝国の遺産であり悔悛。
遅れを感じさせるように触れ合いが行われていく。躊躇と怠惰による先延ばしが功を奏していくこともある。濃密にではなく、軽妙に触れ合われる肌理。多焦点的ともいえるような、分散された俯瞰もまた、先の躊躇の目線>>続きを読む
冤罪に連れ添う人間の臆断や不条理を圧縮し、サスペンスという宙吊り芸を練り上げる技量については感得してしまう。
賭博行為を支えるのは賭けるに値しない生なのか。厭世と大胆と意固地を辛うじて支えてしまうアレア。
イリンクスと見紛うような愛の遊戯に移行する様は、文明の行く末を問うようだ。
ソフィストの肖像。私の真理はあなたの真理と類比不能であることの詭弁集。行為空間と理由空間の交わらなさを笑いの熱源にして。
九鬼想起。
"「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。(中略)さきに述べたように、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の>>続きを読む
新しい靴が足に馴染みゆくまでの過程にも似た身体感覚が、この映画に触れる時間にはある。不慣れな構図、馴染みのない話法が、はじめからそれを欲していたのだと遡及的に錯覚していく趣意が隠されている。
不穏の力学系。意味が宙吊りにされた寓話、ただ無意味に時を経ることになる会話。
「饗宴は虚無を内包する。」当事案を皮肉と銘打たれた表現に遭遇するたびに興醒めしてしまう。
あくまでも体得された叡智として、粛々と日常が躍動するさまを寄せ集めるほうが、よほど皮肉の真骨頂とおもう(とい>>続きを読む