浮浪者さんの映画レビュー・感想・評価 - 4ページ目

浮浪者

浮浪者

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肉体の冠(1951年製作の映画)

3.6

拳の突き上げからギロチンの急降下まで直情的な快楽が疾走していく。清々しさと呆気なさの結合。

幸福の設計(1946年製作の映画)

3.3

投棄と投企のゆりかごが生み出す小さや破滅たち。

白い足(1949年製作の映画)

3.6

歓喜に溺れる響宴と冷徹に遂行される殺害が完全なまでの並行関係としておさめられていくさまよ。そして、愛し過ぎてしまうものと愛し損ね続けるものによる奇妙な連帯がおこなわれていく。

魅せられて(1949年製作の映画)

3.6

顕微鏡と望遠鏡で現実を掬い取ろうとする愚かさと偉大さがフィルムノワールにはある。眼を澄ませて。よぼよぼと、とぼとぼとしか人生は進まない。成長も成熟もなく、漫然と時間だけがすぎ。空間はひとりでに闊歩して>>続きを読む

快楽(1952年製作の映画)

3.4

乱痴気騒ぎの饗宴と静謐に包まれた聖体拝領。この二重性が相即するところに快楽もまた咲き誇れるか。渋谷という街には前者しかなく、教会という家には後者しかない。

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)

3.6

荒川と堀切のコンビネーショントレーニング。暴れるものと受け流すものが醸し出す舞踏。光と闇の点滅を伴って汽車が橋をまたくどきのように。

ミスター・ランズベルギス(2021年製作の映画)

3.5

そうでしあれなかったという現実性の追認を真顔でいえるような好々爺ではなかろう。

「彼の内部に巣食う魔性と平凡性が垣間見れるような視点が望まれる」という態度を消滅させるように狙われた映画か。

Playback(2012年製作の映画)

3.5

インドラの網に絡め取られた三千大千世界。降臨する瞬間は、可能性の束である現実と矛盾しないことの現れ。

THE FIRST SLAM DUNK(2022年製作の映画)

3.2

トラウマのために死者はいらない。静寂のために慟哭もいらない。ネットとボールの接触のみが真実として現れた。

路地へ 中上健次の残したフィルム(2000年製作の映画)

3.4

新宮に入るまでの道程、火祭りで同体した神倉山。身体が疼く、感覚が甦る。想起と内部感覚の連鎖を味わうことは出来たが、中上の射程はそれだけではない。

百年の夢 デジタル・リマスター版(1972年製作の映画)

3.4

この連綿たる現実が、見世物のように感じる恐ろしさ。映像は沈黙しているが、雄弁でもあることの実証。

白いトリュフの宿る森(2020年製作の映画)

3.3

無欲でありながら限りなく強欲であり続けること。文化継承という正しさに向けた抵抗。

僕の彼女はどこ?(1952年製作の映画)

3.3

悪魔としての贈与。「地獄への道は善意で舗装されている」ことの表象。

ソウル・オブ・ワイン(2019年製作の映画)

3.3

テロワールを突き詰めた先に、ティピシテという侮辱に近い一般化が行われるAOCの無益さを露呈している点が面白い。DRCの選果プロセスが中々にいい加減だった点もまた。

冬の旅(1985年製作の映画)

3.5

『ワンダ』『ウェンディーアンドルーシー』に連座させて「放浪を許されぬ女」という見方もできようが、そこに着地させるだけでは足りない気配が充満している。

モナの理由空間を求めるがゆえに不穏さを抱くのでは
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ノベンバー(2017年製作の映画)

3.4

明晰夢アーカイブ。夢と覚醒の役割が崩壊した後の(建築される前の)世界。

フォーエヴァー・モーツアルト(1996年製作の映画)

3.5

つまりは何ごとも起こりはしなかったのだ、と会得するためのレッスンが導くもの。今・ここ・私において全てが生起しているという純粋なる独我論とも思えるし、時制・場所・人称といった文法(生活形式)に見放されて>>続きを読む

JLG/自画像(1995年製作の映画)

3.4

鏡像/虚像にしかなりえない自画像、危うくも魅せられる自我という精神的動物。「私はこのように映した、では君はどうか。」という残響を耳にするように、彼を聴く。

天はすべて許し給う/天が許し給うすべて(1955年製作の映画)

3.5

通俗性の徹底が甘ったるさを創出し、典型化された困難が御都合主義をはらんでいくが、そのような感情/感傷を引き起こせる機能こそがメロドラマの真髄ではないだろうか。世界に充満するメロドラマ化された心理の発見>>続きを読む

勝手に逃げろ/人生(1980年製作の映画)

3.6

終わる。そして、終われ。と思った途端に全てが終わっていく快感の一致。

見たいものを顕現させる。見てしまったものが顕現してしまっている。

時制が狂い、感覚が紛れ、気分は程よく緊張と弛緩を繰り返す。技
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青べか物語(1962年製作の映画)

3.5

回想とモノローグの綯交ぜに大損をきたしながら益しか感じないのは。結果的に民俗写真となることを予期してたとしか思えないからか。土地の背景になりきるヒューマンネイチャー。

ゴダールの決別(1993年製作の映画)

3.4

いまあなたが無言でいる傍で。見知らぬ人間が見知らぬ人間へ向けて話している世界が。

単純にあることに戦慄する勢いのみが際立っていく。引用の束という無機質な装いだけが奏でられる気色。

重力の光 : 祈りの記録篇(2022年製作の映画)

3.4

写すことの力学に敏感すぎる知性が、撮ることの疚しさから脱皮する過程のように思えた。

信頼資本を元手に記録という賭博が快活なまでになされるときも来るだろう、という予感とともに。

愛する時と死する時(1958年製作の映画)

3.4

「愛していたドイツと死んでしまったドイツ」を仮託されたペアによる歴史の編み直し。抗う術をもつことすら許されず世界から退場することを強いられたものたちに、向けて。

NOPE/ノープ(2022年製作の映画)

3.6

Once Upon a Time in... Hollywood
マイブリッジ「動く馬」を起点にしながら、光画/映画の系譜を再構成しようとする意図を汲むことは安易なのだろう。
その容易さに身を預けなが
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接吻(2006年製作の映画)

3.6

あまりにもニーチェだった。戦慄する映画は常に埋もれている。

"最も深く、最も個人的に苦悩しているとき、その内容は他人にはほとんど知られず、窺い知れないものである。そのようなとき、人は最も親しい者にさ
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捜索者(1956年製作の映画)

3.4

そもそもそして、なにゆえに「先住民」との対立がおきているのかという問いは雲散霧消し、単純な対立、平凡な贈与、無意味な殺戮のみが現象してゆく。

その中で僅かながら問いの地平へたどり着けそうな瞬間をかす
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みんなのヴァカンス(2020年製作の映画)

3.5

わたしはこう休んできた。では君はどうか?という言説の少なさを思う。

ヴァカンスの初心者(にして普遍者)の事例をあげつらうことでしか、この労働/資本主義への抵抗は獲得できないのかしら。

リオ・グランデの砦(1950年製作の映画)

3.4

規律と血族の無益な相克。なぜ先住民こそが征服されねばならないのか。そう常に問うてしまう状況(無論、事後的な歴史と相まって、とはいえフォードの現在とそこまで違いはあるのか?)が際立つシリーズ特性は相も変>>続きを読む

心のともしび(1954年製作の映画)

3.5

虚妄に包まれたものが継続と無私の名の下に生ききることが出来たとして、本来何事も起こらない世界で何事でも起こらせていく引寄せの世界。

われわれはPTAザ・マスターを経ている。なればこそ、この不可解さの
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