たむ

新世紀エヴァンゲリオンのたむのネタバレレビュー・内容・結末

新世紀エヴァンゲリオン(1995年製作のアニメ)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

この作品以降、日本ではこれ以上オリジナリティのある、新しい事に挑戦した作品はないのではないかと改めて思う、日本コンテンツ史上の最高傑作です。

私も久々に新作に備えて観ているのですが、大きく分けて4つのパートの26話、全てに亀裂が入っている作品です。

以前観た時、アスカのパートは面白さを追求したアクションもジョークもテンションも娯楽パートだと思っていました。
がしかし、この作品は全てが伏線となっており、悲劇と破滅と絶望へ向かう25話とサイコドラマか認知行動療法かと言いたくなるポジティブさを異常にまとめ切った第26話で構成されています。

ロボットアニメにゴダール監督とフェリーニ監督がぶつかって、モンタージュ論で人間の内面世界を描き切ったと言いたくなります。
出てくるキャラ全てが、不器用を通り越して、絶望的なトラウマに苛まれています。
ここに子供達を救うことの出来る大人はいないと同時に、特にアスカが経験しているトラウマは、尋常ではないものです。
本来であれば、シンジのドラマであり、レイや両親との決着の物語だったのでしょうが、作者の興味は明らかにアスカの方にある。
それほどのキャラになっています。
繊細でありながら、誰よりも人を傷つけるアスカの存在は、トリックスターとして作品を引っ掻き回します。

このアスカが新劇場版で「良い子」のように破で描かれている事が、私を動揺させる。
良い子であればそれで良いのか?
大人は良い子を求めてアスカのような存在を認めていないのではないか?

正しい事が出来る時に間違ったことしかしないのがこの作品のキャラの特徴であり、熱血ロボットアニメと見せかけて、全ての人間を一つにして人類を補完する。
あまりにも唐突なラストの希望は、他に類を見ない難解さと「こうじゃない自分の可能性」というオリジナルから派生した全ての作品をオリジナルと同じ価値にしてしまう前代未聞の物語の可能性へと押し広げたのです。

全体を通してヒリヒリとする人間関係が、破局へと向かっていく視野の広さ。
それを最終的に個人的な精神世界と考え方を変えて生きやすくできるはず、というこれ以上ないほどのパーソナルなテーマへと終局させた。
そこに多少の無理矢理感があったとしても、そうする必要があった。

その歪みは、旧劇場版と新劇場版へと繋がっていくのですが、それはまたそれぞれの作品のレビューで考えたいですね。
たむ

たむ