YasujiOshiba

エクストラポレーションズ:すぐそこにある未来のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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林檎テレビ。1話「2037年:カラスの物語」と2話「2046年:クジラの死」をのぞいてみた。ノンフィクションとフィクション、SFとドキュメンタリーの中間という印象。

タイトルの「エクストラポレーションズ」とは、統計学で「外挿」(extrapolation)のこと。これは、「手元にあるデータを前提に、将来起こると予想し、与えられた値の範囲外を推定しようとすること」。言ってみればこのドラマ、ぼくらが生きている2023年までの温暖化データを元に、それ以降の変化の数々を「外挿/推定」する試み。なるほど「すぐそこにある未来」の推定(複数形)が「エクストラポレーションズ」というわけだ。

ちなみにイタリア語では「estrapolazione」で、これはラテン語の動詞「estrapolare」に由来。分解すると「entra- (外)」と「polare / polire」で、イタリア語では「pulire(洗う)」。もともとは、毛織物に手を加えての縮絨(しゅくじゅう)、つまり洗って圧縮しながら滑らかな生地をつくるという意味。だから「interpolazione(内挿)」がデータの「間 inter- 」を「洗う」ことに対して、データの「外estra-」を整理してゆくことだというわけだ。

なるほど、だから次の話が「2047年」「2059年」そして最後は「2070年」となってゆく。それぞれが「外挿(extrapolation)」というわけだ。

3/28

「2047年:5つの質問」
ラビのザッカーを演じたダヴィード・ディグスはラッパーでもあるのね。前年のクジラの話から続き、イスラエルからマイアミに戻ってきたラビが、ユダヤ教の礼拝所を救おうとする。礼拝所はすでに水が入ってきている。の建物の公的な救済を申請するが、却下される。なぜか。オリンピックと同じ。政治とビジネスは金で動くのだ。そんな世界の対極にいる娘がアラナ。純粋に神はなぜ救わないのかと問う。アラナを演じるネスカ・ローズ(Neska Rose)の膨れっ面がよい。バカな大人に対する膨れっ面。そんなアラナトラビのザッカーをつなぐのが、とんでもない台風が接近するなかで歌われる『雨に唄えば』。

**************
I'm laughing at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love

僕は笑って雲を見上げる
頭の上に黒く立ち込めているよね
でも太陽はぼくの心の中
だからぼくは愛する準備ができてる

Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I've a smile on my face

嵐の雲は来るにまかせよう
みんなそんなところにいないで
雨のなかへ出ておいで
ぼくの笑い顔をみてごらんよ
**************

そうなんだね。神がいるとして、ぼくらを苦しめているとして、その理由はぼくたち人間にはきっとわからない。だから神なんだ。そんなラビの言葉がアラナに届くとき、ふたりはともに雨のなかを笑顔で歌う。そうやってぼくらも、一瞬一瞬を、生きるしかないのかもしれない。そう思わせてくれるジーン・ケリーの歌声。

「2059年:神のように」
それから10年。ぼくらは、科学の限界を恐れて立ち止まる科学者(エドワード・ノートン)と、政治の無能を嘆いて科学に賭ける科学者(インディラ・ヴァルマ)の二つの極のはざまで、テクノロジーが暴走するところを目撃することになる。結局「チェーホフの銃」なのだ。銃があれば銃は発砲される。温暖化を止める技術があれば、それは使われてしまう。ただし、その結果がどうなるか誰にもわからない。

おそらくその「外挿」が描かれるのが、次回の「夜の鳥たち」なのだろう。今週の金曜日まで、おあずけをくらいながら宙吊り状態。うん。よいエンディングだ。はたして破局が来るのか。救いが訪れるのか。空を覆う白いヴェールを見上げながら、タイトルバックにかけて歌われるのが、あの『この素晴らしき世界 What a beautiful world 』。アームストロングのヴァージョンではない。この女性ヴォーカルは誰なのか。物悲しさが切なくてよい。

引用された音楽については、このサイトが追いかけてくれている。ありがたや。
https://vaguevisages.com/2023/03/17/extrapolations-soundtrack-apple-tv-plus-songs/

4/7

「神のように」のエピソードで描かれたジオエンジニアリングによるテロと並行して、小さな英雄が「魔法の豆」を救おうとする話が「夜の鳥たち」なのだけど、空を雲が多い、雨が降ってきて、洪水に襲われる描写から7年後が「2066年:ローラ」だ。

その間に地球は太陽光から閉ざされて暗く澱んでおり、しかも、温暖化は逆に加速している世界なのだけれど、ここで描かれるのが「パック・ファミリー」という仕事。発想としては岩井俊二の『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016)での結婚式の代理親族のアルバイトや、さらにさかのぼれば園子温の『紀子の食卓』(2006)の「レンタル家族」を思い出す。ようするに顧客の望む人物になりきって、家族的なつながりを取り戻す手伝いをするというもの。違うのはクラウドのメモリーに随時アクセスできること。これによって顧客の要望にすぐさま応じることができるので、高度のサービスが可能になる。

主人公のエズラはそんな仕事で生計を立てている。ある時は母子家庭の娘の父となり、あるときは年老いたアラブ人の息子となり、またあるときはゲイのフランス人の恋人となる。エズラを演じるのはアルジェリア系フランス人のタハール・ラヒム。英語、フランス語、アラビア語をみごとにスイッチングしながらの演技に説得力がある。

そのエズラだけど、じつは「2046年:クジラの死」に登場した少年で、「サマー・ハート」という温暖化が原因の病気を患っていた。あれから20年経ったので、治療法ができて命が助かったのだが、同じ病気の身重の妻ローラは救われなかった。エピソードのタイトルが愛する人の名前なのだ。

エズラはローラとの思い出をクラウドに記憶してあるのだが、温暖化によるサーバーのダウンで、サブスクリプションの値段がどんどん上がってゆくという設定が面白い。アップルの iCloud そのままなのだけど、温暖化により世界中でサーバーがダウンしてゆくというのは、考えてみると脅威かもしれない。なにしろサーバーってやつは冷やさないとならないから、温暖化で熱暴走してしまうと目も当てられないことになる。

しかし、クラウドの記憶なんてなくてもいいじゃないかと思うのだけど、ここにもうひとつのトリックが仕掛けらる。新しい治療で「心臓(ハート)」は大丈夫になったが、心臓の虚弱により脳の組織が死んでゆくという症状があらわれたというのだ。愛するローラのことを忘れたくないエズラだが、サブスクリプションがどんどん値上がりしてゆき、支払いが難しくなってゆく時、彼は思い切った行動に出る。果たして、失われた記憶にしがみつくエズラに未来はあるのか。そんな話。

失われた昔は忘れて、今とこれからを考えるというのは、じつのところ、いつの時代でも、それほど簡単ではない。ましては、記憶がどんどん失われていることが確定しているとなると、さらに困難になるというはよくわかる。なんだか『アルジャーノンに花束を』みたい話でもある。

でもね、ぼくも思うんだよね。これまで生きた年月の長さは、とても生きられないわけで、数を数えればどんどん減ってゆくわけなんだよね。それでも生きるとはどういうことなのか。永遠の問いなのだけど、このエピソードはささやかな希望をあたえてくれる。そこは好感。

だから来週が楽しみ。けっこう好きになってきたかも。

5/7
ようやくラストの2話にキャッチアップ。「2068年:送別会」はみごとな室内劇。フォーレスト・ウィテカーとマリオン・コティヤールが依代となった夫婦に、トビー・マグワイアとエイザ・ゴンザレスのカップルが絡む。ウィテカーの演じる夫は、自分の命を「ライフ・ポーズ」にアプロードしようとしている。

このライフポーズというテクノロジーは、あのクラウドに記憶をアップするものの進化版で、いってみれば人間ひとりの生命情報をまるごとバックアップして、温暖化する地球が治癒したら再び肉体を与えようというプロジェクト。不治の病を抱える人間をまるごと冬眠させて、将来医学が進歩したところで蘇生させようという夢の反復。けれど面白いのは、このプロジェクトにより儲けようとする奴がいるってこと。

それが第一話から登場するニコラス・ビルトン。いくつもの特許を独占する大金持ちであり、たぶんビル・ゲイツをイメージすればわかりやすいキャラクター。彼が儲けに使った特許は、第一話では水の浄化装置、それから絶滅危惧種の遺伝子を収集してノアの方舟のように将来復活させようというプロジェクトのメナージュ2100、さらには記憶のクラウドが出てきて、生命のバックアップのライフポーズと、さらにはアルファと呼ばれるAI (これは今の Chat GPT を想像させる)が登場。

けれども、最後のエピソード『2070年、環境破壊罪(Ecocide)』で重要なのは、温暖化した知勇から二酸化炭素を取り除いて環境を元に戻す発明「ニーコメン」。例によってビルトンはこの発明でも儲けることを考える。すぐに実用化できるのをサボタージュしたり、大幅に改善できるのに改善幅を小出しにしたりして、利幅をとろうというのだ。そうした彼の行為こそが「環境殺し」(Ecodice)だとして告訴されるというのがラストのエピソード。

なかなか美しいエンディングシーンなのだけど、ポイントはやはり、この脚本に登場する技術の二面性。技術とは、人間の欲望を組み込みながら、人間の意図を超えたところで、自律的に進歩してゆくものと言われるのだけれど、その自律性がもたらす罪をひとりの大金持ちに被せてしまうラストは、寓意としてはよしとして、現実的にはご都合主義。

まあ物語だからね。そういう解決策もあるのだろう。けれども、考えるべきは、実のところテクノロジーの歴史は僕らの手を超えたところで動いてしまうということ。だからといって止めることはできないし、放っておくこともできない。

ではどうするか。それがこのドラマから受け止めるべき重たい問い。ソファでくつろぎながら楽しんでよいのだけれど、リラックスして楽しんでいるその瞬間にも、ぼくらはこのドラマを見る前のぼくらとは少しだけ違うぼくらになってるってこと。それが大切なんだよ。きっと。
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